四国遍路 2

前々回(2021年9月28日アップ)の「四国遍路 1」の続きです。

 

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NHK趣味悠々2006年9月~11月「四国八十八ヶ所はじめてのお遍路」の掲載写真)

 

5. アクセス

打ち始め(札所を巡拝することを「打つ」という)の札所(お寺)については決まりが無く、どこから始めても良いらしいが、四国へのアクセスや打ち終った後の高野山へのお礼参りを考えると、一番霊山寺(りょうぜんじ)から始めるのが最善と思われる。

 

霊山寺は、徳島県北東部の鳴門市にあり、鉄路、空路、バス路で行くことができる。JRではJR高徳線の坂東駅から歩いて10分位であるが、近くに高速高松道の鳴門西というバス停があり、ここからは20分位歩けば、霊山寺に着ける。

 

乗り換えを考えると、高速バスが便利だ。私は一回目は名古屋の妹宅へ寄ってから出発したので、名古屋から徳島行の高速バスを利用し、鳴門北バス停で降り、JR鳴門線鳴門駅まで歩き、鳴門駅から坂東駅までJRで行った。(名古屋からのバスで鳴門西に停車するバスが無かった)

 

一回目の帰りは高野山へのお礼参りで、徳島港からフェリーで和歌山に向かった。四国を一周した後、船で徳島の眉山を眺めながら四国を後にするのも感慨深いものがあった。

逆に、へんろの前に高野山で旅の無事を祈ってから、船で四国入りをすると言う手もある。

 

私の二回目は行きも帰りも高速バスで、高速高松道の鳴門西バス停を利用た。

 

 

6. 宿

修行を目的とした「おへんろさん」や、体力のある若い学生さんの中には、野宿して回る「おへんろさん」もいるが、私は全て宿を利用した。

 

へんろ道は県庁所在地のような大きな街も通るが、大半は四国の田舎や山道なので、宿泊したい所に宿がないこともある。その場合は、宿のあるところまで、コースを伸ばすか、手前の宿でその日の歩行を打ち切らなくてはならない。

 

私の宿泊した宿は、民宿が一番多いが、その他、お寺の宿坊、ビジネスホテル、シティホテル、旅館、国民宿舎ユースホステルに泊まった。

 

民宿は泊まってみないとその良し悪しは分らないので、当たりはずれがあった。お寺の宿坊は清潔で設備もしっかりしていて安心できるが、宿泊できる寺は、88カ寺の内6カ寺のみである。

 

へんろ後のプラスαの旅行も含めて、一回目が52泊、二回目が53泊した。1回目の52泊について、設備(風呂、トイレ、清潔さ)、料理、サービス/思いやりについて独自の判断基準で数値化し、その値を宿泊料金で割って比較した。その結果、高知県香南市の民宿が1位となった。帰宅後その旨を手紙で連絡して、宿の主人に大変喜ばれた。

 

 

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(NHK趣味悠々2006年9月~11月「四国八十八ヶ所はじめてのお遍路」の掲載写真)

 

 

7. 四国4県人の気質

4県を歩いて、私が会った地元の人の印象(あくまで個人的な感想)

徳島県人:血液型で例えると、A型 皆さんとても親切で気配りもしてくれ、よそ者にもやさしく面倒見が良い。遍路標識も至る所にあり、懇切丁寧に指示してくれる。

 

高知県人:血液型で例えると、B型 言葉少なく粗削りな感じだが、根は優しい。感情に流されずドライなところもある。遍路標識は高知県に入ると、徳島県と比べ極端に少なくなり、指示もそっけないものが多い。一回目には高知県で2回道に迷った。こう書くと高知県人は冷たいと思われるかもしれないが、決してそうではない。べたべたともてなすことは苦手だが、へんろに対する理解や親切心は他県と同じだ。

 

愛媛県人:血液型で例えると A型 穏やかでまろやかな性格の人が多かった。おっとりとした美しい女性にも沢山出会えた。

 

香川県人:血液型で例えると O型 民宿のおかみさんは、大らかで面倒見の良い肝っ玉かあさんのような女性が多かった。

 

 

8. 四国の川

徳島県

吉野川: 通称四国三郎と呼ばれる国内有数の大河。へんろでこの川を渡るのは、河口に近い下流なので、川幅が広い。11番藤井寺へ向かう時には、川の中央に広い中洲があるため、吉野川左岸-中洲、中洲-吉野川右岸と二つの橋を渡る。中洲は広大で一面に畑が耕作されている。

 

・鮎喰(あくい)川:12番焼山寺から13番大日寺へは、この川に沿って下る。名前からも鮎が沢山いそうな清流

 

牟岐(むぎ)川:へんろ道は河口近くの橋を渡るのであるが、下流なのに渓流のような清々しい川

 

・海部(かいふ)川:徳島県南端の堂々とした大河

 

高知県

高知県の川は、小さな川も大きな川も、みんな水がとてもきれいで、川底まで透きとおっている。色も青や薄い緑、まさに清流だ。

 

・伊尾木川:室戸岬を回って、奈半利川、安田川に続いて現れる本格的な川だ。この川を渡ると安芸市市街に入る。

 

国分寺川:29番土佐国分寺の近くを流れる川。周囲は広大な農地

 

・二淀川:宮尾登美子の小説の題名にもなった高知市土佐市の間を流れる名河川。橋を渡るのに11分を要す大河なのに、水青く美しい気持の良い川である。

 

四万十川:へんろがこの川を渡るのは、河口近くの四万十大橋、渡るのに13分。仁淀川同様大河なのに清流。

 

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     (四万十大橋から見た四万十川 2017年11月12日撮影)

 

愛媛県

肱川ひじかわ):43番明石寺へはこの川を左に見みながら進む。愛媛県大洲の町はこの川に囲まれ、市民の憩いの場所でもある。初冬の朝、大洲盆地で発生した霧が肘川を下り、霧を伴った冷たい強風が河口を吹き抜ける「肱川嵐」は、伍代夏子さんの歌にもなった。

 

香川県

この時期、香川県の大きな川は、水がほとんど涸れており、水も清流ではなく、川の魅力はなかった。

 

 

9. トンネル

昔、山越えをしていたようなところに、トンネルが掘られ、ショートパスできるようになったへんろ道がかなりたくさんある。足摺岬から宿毛市の39番延光寺へ行く途中、一回目に海岸線をくねくね回り込んで進んだ道に、トンネルができ、二回目の時は30分以上も時間短縮できた。

 

トンネル内は平地なので、歩行スピードは上がるが、危険も多い。トンネルは、基本的に自動車用に作られているので、車道と分離する歩道がないトンネルもある。こんな時は非常に怖い。大型のダンプなどが大音響を轟かせて驀進(ばくしん)して来ようものなら、身の縮む思いだ。自分の存在を車の運転手に知らせるのに、蛍光タスキや懐中電灯は欠かせない。

 

一直線のトンネルは、出口が小さく丸い灯りとなっているが、これが意外と遠い。歩いても歩いても出口が縮まらない。長いトンネルは通過するのに30分位要した。自動車がトンネルに進入すると、小さな車でもトンネル内は反響してゴーっと凄い音がし、車がトンネルを抜けるまで続く。

 

愛媛県宇和島手前の国道56号松尾トンネルは、全長1710m、車の通行量が多く、歩くには排気ガスが心配されたが、隣に新しい高速道のトンネルができ、車が分散され、人も通れるようになった。

 

 

10. 接待文化

四国には、へんろをもてなす文化が存在する。四国の人々は弘法太子を慕う心から、太子とともに歩いているおへんろ(同行二人)に、太子の姿を重ね、お布施をしたり、接待をすることで功徳を積むと考える。自分の行けない巡礼をおへんろを接待することで、自分も巡礼に加わると考える。

 

接待する四国の人は「功徳を積ませてもらってありがとうございます」という気持ちで接待しているので。接待を受けたおへんろさんが「ありがとうございます。」と感謝しても「こちらこそ」という感じだ。こうして地元の人とおへんろさんが、太子さんを通じて繋がる。

 

私が始めて接待を受けたのは、徳島県13番藤井寺へ向かう途中、吉野川の阿波中央橋を渡りきったところで、おばあちゃんが寄ってきて「これでジュースでも買いな」と言って500円をくれた。初めてだったので大いに感激した。

 

<以下私の接待経験>

 

徳島県20番鶴林寺と21番太龍寺の中間の遍路休憩所に、おへんろ用に段ボール一箱のみかんが置いてあり、ジュース代わりに沢山頂戴した。

 

愛媛県大洲の町から少し離れた住宅地で、おばあちゃんに呼び止められ、おばあちゃんの家まで案内され、そこでいなり寿司を箱詰めでいただいた。

 

松山市の46番浄瑠璃寺へ向かう途中、接待小屋があり、おにぎり、漬物、お茶をごちそうになった。

 

松山市53番円明寺から今治市54番延命寺へ行く途中、主婦と思しき方に道を尋ねたら、丁寧に教えてくれ、その後歩いていたら、その主婦が自転車で追いかけてきて、みかんを一袋くれた。

 

高松市85番八栗寺への急な坂道を登っていると、途中民家の庭先で和菓子とお茶の接待を受けた。 

 

                   ー続くー

9月28日~10月5日

今週も、色々なことがあった。

 

岸田文雄さんが、9月29日の自民党総裁選に勝利し、10月4日の国会で100代目の総理大臣に選出された。岸田さんは、一般の社会であれば周りからも信頼される「良い人」で通るであろうが、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する永田町で、海千山千を相手に、今後どこまで能力を発揮できるか、お手並み拝見である。

 

それから、国内では、あれだけ猛威を振るっていた新型コロナデルタ株による新規感染者の数が急激に減少し、緊急事態宣言などの規制が9月30日をもって解除された。

 

この急激な減少の理由は、ワクチン接種が進んだこととか、飲食店への規制の効果が徐々に表れてきたとか考えられるが、宣言中の人出も減っておらず、専門家もよく分からないらしい。

 

コロナウィルスが、戦略として自ら感染力を抑え、変移して次なる感染爆発に備えているのであって、決して人類による感染対策が功を奏したのではないという学者さんもいた。

 

アメリカではニューヨークのブロードウェイがやっと再開にこぎつけたのに、ワクチン接種後の感染(ブレークスルー感染)が拡大して休演になったというニュースも入ってきた。

 

まだまだ油断は大敵だが、国内は当面新規感染者が減り、宣言も解除されて、ここ数ヶ月に比べると気分もだいぶ晴れてきた。

 

 

9月28日(火)

名古屋の妹から、家を整理していたら出てきたという、亡き母が生前収集していたコインや旧札が送られてきた。

 

コインと言っても、そんなに古いものではなく、昭和23年~50年までの1円、5円、10円、50円、100円の現行硬貨と昭和39年のオリンピック記念100円、1000円硬貨である。専用の「年号別アルバム」に年号ごとに納められていた。それと、板垣退助の100円札、岩倉具視500円札伊藤博文聖徳太子ではない)の1000円札である。(紙幣はかなりの枚数がある。)

 

母は他界して18年になるので、これらを収集していたのは、2~30年以上前のことだろうが、私は知らなかった。私はコレクションには興味がないので、これらにどれほどの価値があるものなのかは、全く分からない。母がコツコツと集めたものと考えると、直ちに処分する気にはなれない。さてどうしたものか。

 

10月1日(金)

大型の台風16号が房総沖を北上した。当地は暴風域には入らず、10mm/h前後の雨が降り続いたものの、強い雨風にはならなかった。

 

この日はリハビリセンターの日で、利用者は、皆さん車で送迎されるが、私は近いのでいつものように徒歩で往復した。5分程の短距離ではあるが、足元がビショビショに濡れた。

 

言葉の訓練を担当して下さっている言語聴覚士の Iさんは、先月も書いたが、山に嵌(は)まっていて、9月末の連休に南アルプス北岳へ日帰りで行ってきたと言う。北岳へ日帰りとは私が山に行っていた頃には、とても信じられないことだ。

 

それから、もう一つビックリ仰天した。それは、Iさんは独身のキャリアウーマンと思っていたら、なんと20才の大学生の母親だったのだ。家族の世話をしながら、よく頻繁に山に行けるものだと感心した。それと今の女性は皆さん年齢よりとても若く見える。

 

10月2日(土)

台風が去って、朝から晴天となった。ここ数年台風が過ぎ去っても、その翌日晴れたという記憶がない。久しぶりに見る台風一過の気持の良い秋晴れだ。雲一つない紺碧の空を見上げながら、コロナもこのまま収束してくれたら良いなと思った。

 

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この日、息子の少し早い誕生会をやることとなった。行きつけの中華料理屋さんに予約の電話をする。お店の人が言うには、緊急事態宣言は解除になったが、営業は20:30まで、お酒の提供は19:30までとのこと。

 

夜型の息子にとって、この時間帯では満足できないので、テイクアウトで料理を運び自宅ですることとなった。18:30に料理を取りに行くと、お店は満席で客の皆さんは、やっと自粛から解放されたというような顔つきで飲食なさっていた。

 

誕生会と言っても二人だけのささやかなものだ。彼と相対して飲むのは久しぶりで、ビール好きの息子のために大量のビールを用意した。

 

 

10月3日(日)

緊急事態宣言が解除され、テニス、卓球も再開されるようになった。この日は、Hサークルの卓球開催日だ。

 

2か月ぶりに9名の仲間が集まる。「御無沙汰です」「お久しぶりです」「お元気でしたか?」の挨拶をしながら、再び卓球できる喜びがみんなの顔に描いてある。

 

練習会が始まり、新しくラバーを貼りかえたラケットを、今回初めて使用する。弾性が増したのか卓球台を超えるミスが多かった。プレイに汗を流す。やはり、自宅で一人室内運動をしているよりずっと楽しい。

 

私と同い年で、テニスも同じサークルに入っている友人が今日は欠席だった。彼が参加した時は、練習会の後、近所のMACでお茶するのが恒例となっているのだが、それが叶わず雑談もできず残念だった。

 

10月5日(火)

この日は、SE卓球サークルとKテニスサークルの練習時間が重なってしまい、先に参加を伝えてあった卓球へ行くことにする。火曜日は7月までは、テニスが午前で卓球が午後と重ならなくて、両方参加できたが、これからはテニスも午後になることが多そうで、その時はどちらかを欠席せねばならない。

 

SEサークルは、上手い人が多い。試合出場を目的とする別のサークルにも入っている女性とか卓球経験年数が長く、技術がとても秀でている会員が多い。

 

SEサークルの練習会は、時間の半分をゲームに当てているので、楽しい。ゲームはダブルス、組み合わせは、全員をランダム表で決める。同じペアで、同じ対戦相手と2セット戦う。それが終わるとランダム表で2回目のペア、対戦相手を決めて戦う。1日の練習会で10回以上ゲームができる。ゲーム中は皆興奮し、ワイワイ笑い声が絶えない。

 

卓球技術の上手い下手を問わず全員が楽しめるのが良い。この日ラケットのラバーを新しくしたせいか、いつもよりゲームの成績がよかった。

 

 

今週はあと1回、7日に宣言解除後初のSHサークルのテニス練習会がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

四国遍路  1

私は、7年前(2014年)と4年前(2017年)の二回、四国遍路を体験した。私には特別な宗教心があるわけでなく、一回目は、四国一周面白そう、チャレンジするにはやりがいがありそうとスポーツ感覚で出発した。

 

一周してその達成感に感動し、四国の魅力、遍路の奥深さを知ることとなり、体力のあるうちにと、二回目も行ってきた。お恥ずかしい話だが、二周しても煩悩は全く消えておらず遍路前の俗人のままである。できればもう一度チャレンジしてみたいと考えているが、コロナ禍と加齢による体力低下で当面は難しそうだ。

 

四国遍路を成し遂げるには、三つの条件が同時に揃わなくてはできない。

 

1. 体力:まずは、やはり体力だ。四国一周の遍路道は、1200㎞とも1400㎞とも言われており、一日30~40㎞毎日歩くことになるので、それなりの体力気力が必要となる。

 

2. 時間:私の場合、この条件はクリアできるが、過去、四国を一周するのに台風による停滞を含めて、45~46日要した。それに高野山へのお礼参りや、その後の旅のプラスαを考えると、2ヶ月はキープしたい。

 

3. お金:旅行期間が長いので、それに見合った費用が求められる。

 

当面3回目を決行する予定はないが、ブログのネタが切れ気味なので、過去の遍路経験を記すことにします。

 

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(NHK趣味悠々2006年9月~11月 「四国八十八ヶ所はじめてのお遍路」の掲載写真)

 

 

1. 四国遍路とは

弘法大師空海が、庶民救済の方便(てだて)として、四国の地に「路を遍く(みちをあまねく)」循環式霊場を施したのが起源とされる。四国の八十八カ寺(霊場)を老若男女が杖を頼りに参詣するようになった。

杖は弘法大師の化身とも言われ、一人で旅しても常に弘法大師と一緒で、大師に見守られているとされる。これを「同行二人」という。

 

 

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 (へんろみち保存協力会編 四国遍路ひとり歩き同行二人「地図編」より)

 

霊場は一番(霊山寺)から八十八番(大窪寺)までの八十八か所と、それとは別に別格の二十寺があり、何回も遍路しているベテランとなると、別格も含めて、百八カ寺を巡っている。

 

巡拝の仕方としては、一番から八十八番へ時計回りに巡る「順打ち」と逆回りに巡る「逆打ち」がある。遍路道の道路標識や案内図は、順打ちに沿って表示されているので、「逆打ち」は、「順打ち」に比べ困難を伴う。よって「逆打ち」は、「順打ち」の3回相当の功徳があると言われている。私も3回目は、「逆打ち」も視野に検討しようと思っている。

 

区間を一回で打ち上げるのを「通し打ち」、適当区間に区切って打つのを「区切り打ち」という。私は時間に余裕があったので、二回とも「通し打ち」をしたが、現役で働いている人は、長期休暇の取得が難しいので、「区切り打ち」が多い。

 

2. 遍路の主な持ち物

・金剛杖   :弘法大師の化身とされる大切なものであるが、私はそんな大切な杖を                                                     

        道中二回も置き忘れたことがある。1時間以上かけて引き返した。

        四国を一周すると、杖は先端が摩滅して10~15㎝ほど短くなる。

 

・白衣    :私は、一回目の半月くらいは、着て歩いていたが、暑かったりして

        その後は歩行時には着なくなった。宿坊に泊まって朝のお勤めの時に

        は着るようにした。                          

     

 

・菅笠    :日除け、雨具となるので欠かせないが、これが結構嵩張る。大きな

        笠だとザックに引っ掛かってしまい、不可。

 

・さんや袋  :地図、納経帳、収め札、ろうそく、線香を入れる参拝用サイドバック

        お寺の本堂、太子堂は、小高い丘の上や長い階段の上にあることが多    

        く、こんな時は重いザックを下に置いて、さんや袋のみ持参して参拝   

        した。

 

 

3. 遍路の一日(私の場合)

朝 4:30にスマホの目覚ましをかけるのだが、いつもそれより早く3:30前後、早い時には2:30頃起床する。

 

起きて前日の記録整理、当日の工程、スケジュール、地図の確認をして、ザックのパッキング、ザックの中身は前日全てを床に並べて置く。当日の天気やスケジュールに合わせて、行動中取りやすいようにパックする。

 

行動着に着替え、洗面して、ザック、菅笠、さんや袋、杖を食後直ぐに出発うにきるように玄関に置いておく。(私はせっかちなので、大抵宿泊者の中で一番に出発する。)

 

宿の朝食は、目いっぱい食べる。朝食は宿にもよるが、6:00~7:30

 

ビジネスホテル等で、朝食が出ないときは、夜明け前の4:30~5:00ころ、まだ暗い中を出発する。(早朝出発は、満天の星を見ながらとか、月明かりの中の歩行とか気持の良いことが多い。距離も稼げる)

 

7:00前後に出発、大抵歩き始めは、快調な歩行が多い。遍路を始めた頃は、一時間に一回くらい休憩していたが、お寺の参拝以外に休憩はほとんどとらなくなった。5~6時間とノンストップで歩くようになった。

 

昼食は始めの頃は、地元のお店に寄って摂っていたが、かなりの時間のロスになるので、コンビニのおにぎりやサンドウィッチで済ますことが多くなった。(讃岐のうどんやは例外)

 

お寺では、まず山門の前で一礼して境内へ入り、手水場(ちょうずば)で手を清め、本堂に向かう。ロウソクと線香に火をつけ、収め札とさい銭を収める。その後般若心境を読経する。(正式には、般若心経を含めて、六つのお経を唱えるらしいが、私は般若心経しか知らないので、その他はカット)

 

本堂が終わったら、大師堂でも同じことを繰り返す。その後、納経所で朱印を頂き、山門を出る時も一礼して次の札所に向かう。

 

始めの頃はやり方もぎこちなく、時間ばかりかかって一つの寺で一時間以上要したが、二回目の遍路では20~30分位に短縮できた。

 

札所(お寺)は、県庁所在地のような大きな町では、比較的固まって存在するので、効率よく参拝できる。しかし23番(徳島県日和佐薬王寺)と24番(室戸岬最御崎寺)とか、37番(高知県四万十町岩本寺)と38番(足摺岬金剛福寺)の間ように、距離が長く二泊しないと次のお寺に到着できないこともあるので、三日以上参拝せずに、歩き通すこともある。

 

宿へは基本16:00ころまでには、到着するようにしている。(一回目、二回目とも10月~12月に巡ったので、日に日に陽が短くなった。)

 

宿では着替えて洗濯、その間に、当日の行動記録作成、翌日のタイムスケジュール作成、宿の計画手配などを行って、後は風呂へ入って夕食(ビールは唯一の楽しみ)を食べて、20:00前には就寝。

 

 

4. 遍路仲間

普通、歩いている時は一日中一人で歩くのが原則で、連れ立ったり、数人で歩くということはしない。しかし長く歩いていると、札所(お寺)や宿で何度も顔をあわせ、顔見知りになるお遍路さんもいる。彼らは同じ目的を遂行している同志なので、お互い敬意を払って干渉しないよう行動する。出身地はお互い披露するが、名前は明かさない。

一期一会の付き合いだ。

 

したがって私のメモには、彼らのことを「横浜へんろ」「札幌へんろ」「鹿児島へんろ」と記録してある。

 

一回目の遍路の時、20番鶴林寺徳島県)麓の宿で一緒になった名古屋へんろが、その後も宿を別々に取っているにもかかわらず、同じになったり、お寺で偶然会ったりして、結局、愛媛県久万高原町の宿まで同宿となることが多かった。彼は年齢も近く、私の地元名古屋であることもあって、ウマがあい宿ではよく食事を共にした。

 

朝宿を出る時、これが最後と「じゃあこれで、お元気で!」と言って別々に出発するのであるが、数日後又同宿となり、「腐れ縁だな」と二人で笑った。その彼を見かけたのも44番大宝寺が最後となった。

 

二回目の遍路では、37番岩本寺近くで、休憩に立ち寄ったお茶所で一緒になった5~60代の女性が、私と同時に出発して歩き始めたら、その歩く姿は凄く綺麗で、スピードも早い。みるみる私から遠ざかり、一本道の先で黒い点になった。元陸上の選手ではなかろうかと思った。

 

39番延光寺高知県宿毛市)から53番円明寺松山市)まで一緒になった60才の横浜へんろの男性は、凄く律儀でトンネルでショートパスできても、遍路山道を忠実に登る人だ。お酒も大好きだが遍路中は断酒している。私のようないい加減な人間には頭が下がる。

 

66番雲辺寺麓の宿(徳島県三好市池田町)で出会った80才の札幌へんろは、歩き遍路が、13回目というベテラン。今回も別格20寺も含め108寺を回っている。80才にはとても見えない温厚なオジイチャンだった。

 

                  ー続くー

 

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「四国遍路」については、非定期で掲載しようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

小さい秋みつけた

秋の彼岸になった。お墓参りは、年5回(正月、春秋の彼岸、命日、お盆)以上行っているが、いつも一人なので、お参りしてそのまま帰ることが多い。

 

今回は、コロナ禍でずっと外出、ドライブを自粛ていたので、秋の気配を感じたくて、墓参りをしながら霊園の近くの田舎っぽい集落へ車で行ってみた。

 

まだ、緊急事態宣言が発令中であるが、一人で車に乗って、第三者とは会わず、会話もしなければ、許されるだろうとの判断である。

 

まず、霊園手前の主要道から外れた脇道をゆっくり走っていると、地元の園芸愛好家が手入れしている道端の草花に目が止まった。

 

千日紅(グーグルレンズ検索)

 

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日日草(グーグルレンズ検索)

 

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マツバボタン(グーグルレンズ検索)

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枯れたヒマワリとケイトウ

 

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ここから霊園へは、県央を流れる県内有数の大河を渡って行く。

 

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霊園墓地

 

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墓参りを済ませ、霊園近くの集落に行ってみる。この集落は自宅から歩いて3.5時間くらいのところにあって、7年前の今頃、徒歩で訪れたことがある。その時あちこちに彼岸花が咲いていて、長閑(のどか)で気持の良いところだったとの印象だった。

 

 

農家の畑には、季節外れのヒマワリが咲いていた。(遠景に彼岸花

 

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別の畑のにはサルビア・ガラチニカ(グーグルレンズ検索)

 

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さらに集落を巡っていると、萩の木を発見

 

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前回のブログでも書いたが、金木犀はここでも花を開き、甘い香りを辺り一面に漂わせていた。

 

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この集落の一番の見ごろはやはり、彼岸花だろう。

 

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帰る時、コスモスとススキが風にわずかに揺れていた。これが「小さい秋みつけた」なのかなと思った。

 

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九月になって

今年は、八月下旬は猛暑日も何回かあり結構暑かったが、九月に入ると急に涼しくなって、例年のような残暑に悩まされることが無く、快適に生活できてありがたかった。その代わり、9日までは前線が停滞したのか、雨や曇りの日ばかりで、その後も二日ほど晴れたものの、その他は天気が悪く、日照時間が極端に少ない九月前半であった。

 

コロナの新規感染者数は感染爆発した八月に比べるとかなり減ってきて、九月に入ると急激に減少した。喜ばしいことではあるが、重症者数、医療体制の逼迫(ひっぱく)状態は、まだ十分に改善されていない。9日には緊急事態宣言も、19都道府県で30日までの延長が決まり、わが町も延長となった。

よって、テニス、卓球のサークルも九月末まで休止期間が再延長された。

 

<九月前半のトピックス>

① 病院受診

ⅰ)9月1日: 今年1月末に退院した脳内神経科の経過診察

主治医に「退院して半年以上になるが、まだぼーっとした感じやフラツキがとれない」と訴えると、「脳梗塞だからね。後遺症で仕方ない」というような返事だった。この感覚は一生の付き合いになることを覚悟した方が良さそうだ。

 

血糖値、尿酸値等の血液検査の値は、2か月前とほぼ同じだった。

 

(ⅱ)9月10日: 年2回定期検査をしているペースメーカー検診

ペースメーカーの機器は正常に作動しているが、心電図では心房細動の不整脈が今回もみとめられた。前回の診察でこのような状態では、カテーテルアブレーション施術は当面しないと決めたので、引き続き様子見とする。

 

運動をしていて、負荷を上げるとすぐに「ハーハー」と呼吸が苦しくなるが、下げるとすぐに回復する。これはやはり脈拍が、ペースメーカーの設定値以上になると、、自分の心臓だけの対応となることによる現象らしい。

 

⓶9月3日、9月9日:リハビリセンター

8月にわが県に緊急事態宣言が発令されて以来、人と会話したり人と運動するのは、このリハビリセンターだけとなったので、週一回通所するのが楽しみになり、フィットネスクラブへでも行くような気持で通っている。

 

ここに通うようになって、7ヶ月以上過ぎた。入所当初から普通に動くことができたので、入院時のリハビリのように、日に日に出来なかったことができるようになるという目に見えた成果が実感できないでいる。

 

リハビリセンターのメニューは、理学療法士Mさん指導によるストレッチ、下肢、体幹、関節筋力増強、バランストレーニング90分、言語聴覚士Iさん指導による構音訓練、呼吸発声訓練20分、マシントレーニング40分、歩行/ランニングマシン30分だ。

 

マシントレーニングは、入所時に比べ負荷を30~40%位増やして、できるようになった。歩行ランニングマシンは15度の登り勾配を付け、速度を緩急つけてインターバルにやっているので、これが一番きつい。ハーハー言いながらやっているのだが、余りに苦しくて途中マスクをはずしたら、Mさんに感染防止上マスクははずさないようにと注意された。

 

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          写真ACより    まぽさんの作品

 

言語聴覚士のIさんは、今、山にはまって、毎週のように山登りをしている。私も若いころよく山に行っていたので、訓練の前後の短い時間であるが、よく山の話をしている。今月末に南アルプス北岳を予定しているそうだ。

 

Sさんは、元気でチャーミングな若い看護師さんだ。4月ごろまではマシントレーニングの補助をしてもらったり、帰宅の準備をしている時などによく雑談をしていた。5月以降Sさんの勤務シフトが変わり、私の通所金曜日は来なくなり会えなくなってしまった。

 

第二金曜日の10日は、私が病院へ行く日に当たったので、Sさんが出勤する木曜日の9日に 振り替えてもらった。当日私が歩行マシンでハーハーやっていると、背後から「〇〇さ~ん、(〇〇さんとは私のこと)ガンバってやってるね」と明るく大きな声をかけられた。

 

休憩時の雑談で「鼻うがい」の話になり、彼女もやったことがあるというので、訊いてみた。それは「鼻うがい」をして就寝すると、うがいの塩水が完全に鼻から抜けきらず、寝ている間にのどに戻ってくるがどうしたものかということだ。

 

彼女が言うには、「うがいをしてすぐに就寝するのではなく、30分か1時間位頭を立てて残った塩水が重力でのどに落ちるのを待ったら」ということだ。

 

久しぶりに会って、彼女の明るい笑顔と話し声を聞き元気をもらった。

 

先に書いた、ぼーっとした感じやフラツキは、7ヶ月のリハビリトレーニングをしても顕著な改善がみられなかったが、最近リハビリセンターで3時間みっちりトレーニングをすると、爽快な気分となり、フラツキも少し良くなっているような気がしてきた。

 

③9月9日:金木犀の香り漂う

歩いてリハビリセンターへ行く途中、どこからか仄かな甘い香りが漂ってききた。「・・・ん、これはもしかして金木犀?今日はまだ9日なのに早すぎないか?」と思って、帰宅後、わが町における最近の金木犀の香りが漂い始めた日付を、調べてみる。

 

2016年    2017年   2018年   2019年   2020年    2021年

9月27日   9月24日  (記録なし) 10月14日  10月1日    9月9日

 

この6年間では、今年がダントツに一番早い。今年は九月になって涼しい日が続いたせいなのだろうか、よく分からない。いずれにせよ、金木犀の香りが漂う住宅街を歩いていると、幸せな気分になる。しばらくは、この香りを楽しませてもらおう。

   

 

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おまけに、今の時期に相応しい曲を掲載します。

 

<誰もいない海>

作詞:山口洋子  作曲:内藤法美  歌唱:トワ・エ・モア

作詞の山口洋子さんは、「よこはま・たそがれ」や「夜空」を作詞した山口洋子さんとは同姓同名の別人の詩人、作曲の内藤法美さんは、越路吹雪さんの夫君

 

 今はもう秋 誰もいない海

 知らん顔して 人がゆきすぎても

 私は忘れない

 海に約束したから

 つらくても つらくても

 死にはしないと

 

 今はもう秋 誰もいない海

 たった一つの夢が 破れても

 わたしは忘れない

 砂に約束したから

 淋しくても 淋しくても

 死にはしないと

 

 今はもう秋 誰もいない海

 いとしい面影 帰らなくても

 わたしは忘れない

 空に約束したから

 ひとりでも ひとりでも

 死にはしないと

 

 ひとりでも ひとりでも

 死にはしないと

 

この曲は今まで漠然と、次のように解釈していた。

すなわち、「若い女性が一人初秋に旅に出て、誰もいない海に来て感傷にふける」というセンチメンタルな曲。それにしては、歌詞各節の後ろで「死にはしないと」とシリアスな言葉が入っていて、なんかイメージと合わないないな~とは感じていた。

 

スマホのネットサイトを見ていたら、「健康オタクの【あんこう】」さんが、これは、恋人か肉親の大事な人を亡くした女性の歌というのだ。

そうか、そう考えると歌詞の意味も納得できるなと合点した。

 

 


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卓球ラケット/義足

私は去年まで、四つの卓球サークルに所属していたが、何れも大会の試合出場を目的としたものでは無く、会員同士の親睦を目的としたもので、和気あいあいと楽しく活動をしてきた。

 

今年初め病気をし、現在もリハビリを続けていることもあって、サークル活動を少し減らそうと考え、二つのサークルを退会し、現在所属している卓球サークルは、二つとなった。(テニスサークルも三つから二つに減らした。)

 

卓球ラケットのラバーは、常に大会出場している人たちは、数か月に一回ラバーを貼り替えているようだが、私は物臭(ものぐさ)で、いい加減な性格なので、今のラケットは、2年近くも貼り替えずにそのまま使用してきた。

 

2年も使い続けていると、さすがにラケットのコーナー部は卓球台の角に何度もぶつけ、ボロボロとなってみすぼらしいし、人に見られると「こんなになっても、まだ貼り替えずに使っているの?」と言われそうで恥ずかしい。

 

 

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丁度今は、緊急事態宣言が発令中で、その期間内は卓球練習会も休止中なので、2年ぶりにラバーを貼り替えることとする。

 

先週、車で隣の市の卓球専門店へ出かけた。私のラケットはシェークハンドで、ラバーは卓球を始めて以来ずっとフォア、バックともに裏ソフトラバー(表面に凸凹がなく平坦なもの)を使用している。

 

ラバーにはその他、表ソフトラバー(シート表面に小さな粒が施されたもの)、粒高ラバー(表ソフトよりさらに粒の高さが高い)等があり、ラバーによってそれぞれ特徴がある為、試合を目的にする人たちは、自分のプレイスタイルに合わせてラバーを選択している。

 

ラバーに関して、私は卓球を始めた頃から、素朴な疑問を抱いていた。それは、ラバーの違いによって、上記の裏ソフト、表ソフト、粒高によって球の回転、スピード、コントロール性が全く異なり、同じ裏ソフトでもハイテンション、粘着性と種類は様々である。

 

これらの異なるラバーを持った者同士が試合をした場合、人間の技術、テクニック以上にラバーの影響が大きくなってしまうと、試合が公正とならないのではないかということだ。

 

私の考えは、ラバーは種類も厚みもシンプルに一種類に統一し、ラバーに頼らず純粋に人間の技術だけで戦うのが、ベストではなかろうかということだ。

 

道具の良し悪しで、勝敗が決まるのはフェアではなく、スポーツ精神に反すると思うからだ。

 

これに対し、多分次のような反論があると思う。

 

・色々なラバーを選手が使用することにより、打球は様々に変化するので、攻撃側は選択肢が増え攻撃の幅が広がる。レシーブ側はその攻撃に対応するための研究が不可避となり、結果的に攻撃、レシーブ双方の卓球技術が進化し、卓球の試合が面白くなる。

 

この考え方も理解できる。現在の卓球が隆盛しているのも、卓球関係者がラバー開発に精力的に取り組んできたことも一因と思われる。

 

難しい問題であるが、私のように親睦が目的でやっている分には、裏ソフトラバーで十分だ。

 

裏ソフトラバーを買い求めることにするが、前述したようにこのラバーでも、厚さ他色々あって値段もピンからキリまでだ。私は売れ筋のごく標準的なラバーとした。

 

ラバーの貼り替えは、お店でもやってくれるが、私は自分で貼りかえるので、接着のりとサイドテープを一緒に買った。

 

ラバーの下の板(ブレード)は、複数の板を貼り合わせた合板が一般的であるが、私のブレードは、檜の一枚板の単板である。このブレードは、私が卓球を始めた頃に 、卓球の先輩が使用していたものを譲っていただいた。その時点で合板のブレードも持っていたが、単板の方が自分に合っていそうで、以来この単板を愛用している。

 

自分で貼り替えるつもりで、ラバーを買ってきたが、いつもの怠け癖が出て、「面倒くさいし、卓球再開はまだ先になりそう」なので、そのまま放置しておいた。

 

昨夜やっとやる気が出て、貼り替え作業に着手した。

 

まず、古いラバーをブレードから剥がしたら、なんとブレードに亀裂が入って二つに割れていた。合板に比べて割れやすい単板の欠点がもろに出たのだろう。

 

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ずっとブレードが割れているのを知らずに、プレイしていたことになるが、今迄一度も違和感を感じたことが無かった。卓球経験の豊富な人が、使用すれば分かったかもしれないが、私のような素人には、割れたことによる打球の差は分からなかった。

 

さてどうするか、新しいブレードを買い求めるか、単板の前に使用していたラケットのラバーを剥がして、それを使用するか、迷った挙句、割れた単板を接着剤で接着させる方法を思いついた。試合を目的にする人とか、お店の人であれば決して推奨しない邪道と思われる。又もや親睦が目的だからと、自分に言い聞かせて、木工ボンドで接着した。

 

次にラバーの接着に取りかかる。接着剤メーカーの説明書には、「接着剤は必ず薄く塗ってください」と書いてある。厚く塗れば塗るほど球の反発力が低下して、球が弾まなくなるそうだ。それから、「貼る時はローラーを使用しない」とも記述してある。これはラバーが縮み、性能が低下するからとのことだ。

 

卓球を始めた頃、お店で買ったラバーを貼り付ける作業を見学していたら、お店の人は接着剤を大量に塗り、ローラも使用していた。このラバーを買ったお店でも、たまたま他の客のラバーを貼っていたが、ローラーを使用していた。お店でもメーカーの指示が徹底されていないようだ。

 

この接着剤を薄く塗るという作業がなかなか難しい。スポンジで引き伸ばすのであるが、薄くし過ぎると透明で見えなくなってしまうので、心配になってどうしても厚めに塗布してしまう。

 

赤のフォアと黒のバックラバーを貼り付け、洋裁ばさみで四角い角を切り取り、ラケット周りにサイドテープを貼り付けて、ようやく完成した。

 

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道具の良し悪しで勝敗がきまるのは、スポーツとしてフェアでないと先に記述したが、障害者スポーツの義足について書いてみたい。

 

9月5日にパラリンピックが閉会したが、選手に提供される義足等の性能が、近年格段と進歩し、走り幅跳びでは、義足を付けた障害者(ドイツ、マルクス・レーム選手)の記録が、健常者の世界記録に迫っている。

 

・健常者世界記録:1991年  マイク・パウエル 8m95

・障害者世界記録:2021年  マルクス・レーム 8m62

 

レームは2014年ドイツ国内の一般(健常者)の陸上競技大会に出場し、8m24で優勝している。今年の健常者の東京オリンピックへも出場を希望したが、IOCから拒否されている。

 

彼は健常者の大会に出て、健常者との競争を望んでいるが、それは全く意味のないものだと思う。サイボーグのような、カーボン製の義足に助けられた記録は、義足の記録であって、人間の身体が作った記録とは、全く次元の違うものだと考えるからだ。

 

もちろん、義足を付けることによる身体の鍛え方において、障害者の方の努力、練習は、健常者のアスリートと同等若しくはそれ以上なされていると思い、パラスポーツの選手の方々には敬意を表したいし、パラスポーツを否定するものでは無い。

 

9月1日の東京パラリンピック走り幅跳びの試合前、メディアはレームが健常者の東京オリンピック優勝記録8m41を上回るかどうかと大々的に喧伝していた。結果はレームが8m18で優勝したものの、8m41には及ばなかった。

 

しかしメディアの報道の仕方にも問題があると思う。義足の走り幅跳びは、健常者の走り幅跳びとは、違う種目と考えるべきで、その記録を比較すること自体がナンセンスだと思う。健常者のマラソン車いすラソンのタイムを比べることが無意味のように。

 

夏の終わりの二題

子どもの頃、夏が蒸し暑い名古屋で育った私は、この季節が苦手だった。大人になって、運動して汗をかくことが好きになり、暑い夏も余り苦にならなくなった。そして、お盆が過ぎてからの八月後半は、盛夏の喧騒も一段落し、祭りの後のような気だるい感覚が心地よく、私の好きな時期と思うようになった。

 

まだまだ残暑が続きそうですが、夏の終わりに、夏の二題を投稿します。 

 

 

<夏の雨>

 

雨が続いて久しぶりに晴れた日に、銀行に出かけた。その銀行は、普段ほとんど利用していないのであるが、銀行合併して行名が変わり、通帳を新しい物と交換する必要が生じたのである。

 

その銀行は、私の最寄り駅の一つ隣の駅前にあり、少し遠いが、久々の晴天にも誘われて、歩いて行く。

 

通帳交換はすぐに終わり、銀行を出ると時間はお昼時、のどの渇きを覚える。駅前なのでどこかに甘味処でもあれば、かき氷でも食べたいとお店を探すが、食べ物屋や飲み屋ばかりで、かき氷を扱っているお店は一軒もない。駅前に甘味処が無いなんて、わが町も田舎だなと悲しくなる。

 

帰りは、駅前の市立公園を突っ切って帰ることとする。自販機で冷たい紅茶を買って、池の前のベンチに腰掛け、白鳥を眺めながら飲む。

 

一息ついて、公園通路を反対の出口に向かって歩く。前に三人連れの親子が歩いている。子供は3才と2才くらいの女の子、お姉ちゃんは一人で先を歩き、その後をお母さんが妹の手を引きながら続いている。

 

三人を追い抜きざまに、妹を見ると目が合ってニコリと笑ってくれた。この年ごろの子供は、どの子もとても可愛い。ついこちらも頬が緩み微笑み返す。妹の足取りは遅いが、お母さんに手を引っ張られるようにして一生懸命歩いていた。

 

公園を抜けて住宅街の一般道を歩き始めた頃から、急に空模様が怪しくなった。ぱらぱらと大粒の雨が降り始める。家を出る時、晴天だったので、傘は持っていない。その後ザーッとかなり強い雨が降り出す。風が無いので雨は空から真っすぐに地面に叩きつけた。

 

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         写真ACより  晴れのち晴れさんの作品 

  

雨宿りできそうな場所が無いかと見渡したが、見当たらない。ここから家までは20分位だ。「しょうがない」と諦め、どしゃ降りの中をそのまま雨に打たれて歩く。今迄、雨の中、傘もささず、雨具も付けずに歩いたことがあるだろうかと昔の記憶を反芻(はんすう)してみる。大雨の中を長時間歩いた経験は何度もあるが、雨具無しの歩行は思い浮かばなかった。

 

雨の中を歩きながら、公園で会った親子連れが気になった。彼女らはまだ公園の中と思われる。彼女らが歩いていたところから、雨宿りできそうな建屋までの距離はかなりありそうだった。

 

お母さんは、傘を持っていないようだった。小さな二人の子供を連れて、急にこんなどしゃ降りにあって途方に暮れ、さぞかし難儀をしていることだろうと想像し、お母さんが気の毒で可哀そうになった。

 

笑ってくれた妹の女の子や、小ちゃなお姉ちゃんも強い雨に打たれて、今頃べそをかいているのではなかろうかと心配しながら、自分もずぶ濡れになって我が家に辿り着いた。

 

 

 

<夏の日の恋>

 

私のことではなく、夏によく耳にするパーシーフェイスオーケストラが奏でる美しい曲のことだ。「夏の日の恋(Summer  Place)」は、1969年に公開された映画「避暑地の出来事」の主題歌である。

 


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この動画は、数年前から私もYouTubeでよく視聴していた。そしてコメント欄のあるコメントに目が止まり、この動画を視聴する度に、このコメントを読んでいた。

 

それは、4年前の投稿で、投稿者は「延岡その3水族館他」さん、(以降延岡さんと記述)

延岡さんのコメント

「・若い頃、彼女と結婚できるなら、何も要らないと思いました。それが今の家内、脳腫瘍の病で寝たきりになりましたが、私の宝です。不思議と介護も苦になりません。恩返しできることに感謝してます。

・この曲があの頃にピッタリで、二人でよく出かけた頃を思い出します」

 

 

私も、連れ合いを3年間介護して亡くした経験があるので、このコメントには胸を打たれた。

 

このコメントを読んで、色々気になった。

 

・「恩返し」とは、今の奥さんが結婚を承諾してくれ、結婚できたことに対して言っているのであろうか?

・延岡さんがこのコメントを投稿したのが4年前、今でも苦になさらずに、感謝の気持ちを持って介護なさっているのだろうか?是非そうあって欲しいが、一時でも「苦」と感じた時には、それを回避、発散できる環境にあるのだろうか?

 

延岡さんには、エールを送りたい。

 

私の場合は、わずか3年という短期間だったこともあり、延岡さんのように不思議と介護も苦とならなかった。3年間は24時間接していたので、その3年は今思うと、それまでの数十年間分以上の濃密な時間でもあった。

 

延岡さんのコメントを読まれた多くの方は、「この奥様は、旦那様が、このような状態でも愛してくれ、献身的に介護してくれて、なんて幸せな女性だろう」と思われるかもしれない。

 

しかし奥様にしてみれば、いつも旦那様に感謝をしつつも、一方的に愛を受けるのみで、自分も旦那様に何か尽くしてあげたいのに、何もしてあげられないことが、悲しく辛く感じておられると思う。

 

そこのところを、分かって上げて欲しい。