四月最終週

近所で綺麗に咲いていた八重桜、ハナミズキも青葉になった。今歩いていて目に付くのは赤紫のツツジ(アザレア)と黄色のモッコウバラだ。

 

 

 

 

陽気が良くなって、春の草花を眺めながらも、今この時点でウクライナでは戦争が行われていて、毎日多数の犠牲者が出ていると考えると、心が曇る。

 

ロシア軍にほとんど制圧されているウクライナ南部マリウポリでは、ウクライナ軍(アゾフ連隊)が製鉄所に立てこもり抵抗を続け、女性子供を含む民間人約1000人、負傷兵500人も製鉄所に避難している。周りはロシア軍が包囲しているので、物資は底をつきかけている。

 

この状態が続けば、ロシア軍が攻撃しなくても、立てこもっている兵士・民間人は、兵糧が尽きて、悲惨な恐ろしい状態になると懸念される。

 

私は数日前、自分がこの製鉄所の中でウクライナ人とともに避難していて、阿鼻叫喚の地獄図のような世界で苦しんでいる夢を見た。目覚めても非常に後味が悪く怖かった。

 

国連事務総長が、製鉄所からの市民の退避に関する協議を、ロシア、ウクライナ当局と行ったとのニュースも入っているが、少なくとも民間人の安全な退避が一刻も早くなされるよう祈る。

 

一方、国内のコロナ新規感染者は、一日4万人前後(4月28日現在)で地方では高止まりや増加しているところもあるが、都市部では減少傾向にある。そんな中、今年はコロナが流行してから初めての行動制限のないゴールデンウイーク(GW)を迎えることとなった。

 

4月29日のGW初日の前夜は、六本木、新宿、渋谷の繁華街は、コロナ自粛のうっ憤を晴らしたい若者であふれ、帰りはタクシーがつかまらず、まるでバブルの頃のような様相であったとラジオニュースが伝えていた。

 

 

私の生活はというと、平凡なのは良いことであるが、変わり映えのしない毎日が続いている。四月最終週(4月24日~30日)のなんてことはない日々の日常生活を綴ってみます。

 

4月24日(日)

朝から雨で寒い。午後、傘をさして歩いて公民館に向かう。(Hサークルの卓球練習会が開催される公民館は、自宅から近いので歩いて通っている。)

 

雨のせいか参加者は、いつもの半分くらいの5人であった。卓球台は3台あるので、5人という人数は非常に効率が悪い。6人だと、3台の台をフルに活用して二人ずつ対面で練習できるのだが、5人だと、二人と三人に分かれて、台は2台で一台は未使用となる。

 

練習の立ち位置はくじで決めるので、参加者が多いと一台で3人とか4人の練習となり、一台で二人だけの対面練習に当たるのはラッキーなことなのだ。

 

それでも、参加人数が少ない分、練習は密度が濃くなったような気がした。

 

テニス仲間でもある同い年の友人が、今日は欠席したので、いつも卓球練習後に二人でコーヒーを飲みに行くMACへも寄らずに帰宅した。

 

4月25日(月)

昨日とは打って変わって朝から晴れて暑くなった。今日は珍しくテニスも卓球も無い日なので、普段やり残していることをまとめてやった。

 

・布団干し/洗濯/大雑把な室内掃除

 

・青汁プレゼントハガキ: 私が毎日飲んでいる青汁の箱に付いているシールを10枚ためて、ハガキに貼って出すと、同じものが一箱プレゼントされるというもの。

 

・段ボールたたみ: 飲料と料理の水は、全てペットボトルの天然水を使用している。これを、土曜日のスパーまとめ買いの時に、2ℓペットボトル6本入りの段ボール箱で買ってくる。この空き段ボール箱が直ぐに溜まって、部屋を占領することとなるので、7~8箱になったら畳んで資源ごみに出すことにしている。

 

・孫への誕生ケーキ注文:孫の誕生日にはネットでケーキを予約して送っている。三姉妹の三女がGW明けに誕生日を迎えるので注文した。ネットでは、ローソクの追加を忘れたので、店へ電話して追加する。

 

夜、ビデオに録画しておいたWOWOW制作の「オペレーションZ」を観る。

「オペレーションZ」は、真山仁の原作で、新潮45に連載され2017年に新潮社から刊行された経済小説をドラマ化したものだ。

 

日本がデフォルトという国家財政破綻の危機に直面し、草刈正雄演ずる首相の密命で組織された財務官僚チーム「オペレーションZ」が、国家予算半減の難題に挑む様子が描かれている。

 

具体的には社会保障費、年金、地方交付税をゼロににする案に、当然ながら厚労省総務省から猛反発され、国会対策、メディアを使った国民へのアッピールの様子がリアルに見るものに迫ってくる。

 

さすがWOWOWドラマだ。作りがしっかりしている。1話1時間で、6話連続だ。3話までは前日までに見たので、この日はの後半、4話から6話までを一気見した。

 

4月26日(火)

今日はKテニスとS卓球が重なったので、S卓球に欠席のメールを入れてKテニスに行く。

この日、今年の1月から「前立腺がん」で休んでいた仲間が、手術後の経過も良くなったということで、テニスを再開した。病気以前と同じ動きをしていて皆安心する。テニスが終了した後、雨が降り始めた。

 

4月27日(水)

今日は亡き連れ合いの16回目の命日だ。午前中に墓参りに行く。彼岸やお盆と違って平日なので、広い霊園墓地には誰もいなかった。お墓を掃除し花を生けお参りする。「もう16年か」と16年前のことが目に浮かぶ。

 

今日は命日であるとともに、娘の誕生日でもある。臨終の枕もとで「私の誕生日に行かないでよ~!」と叫んでいた娘の声が、耳に焼き付いている。娘には辛い宿命を背負わさせてしまった。ひとしきり墓前に佇み感慨にふけり、又来るからと言って墓を後にした。

 

午後は、昔の会社の寮で一緒だった仲間との「オンライン放談会」に参加する。コロナが流行してから、オンラインミーティングをするようになって、今回が3回目だ。

 

前二回のソフトはZOOMで行ったが、ZOOMだと40分で切れるので、今回はMicrosoftのTEAMSにして、一度休憩を挟んで2回連続開催として、60分×2=120分にしたいと主催者から連絡があった。TEAMSを事前にインストールしておいた。

 

メンバーは7人であるが、その内の一人が、前日からめまいと吐き気の症状が出て静養していると連絡が入り、6人で開催した。近況を一人ずつ話す。参加者はコロナ禍の社会を、皆元気で過ごしているようで安心した。次回は秋の10月頃と決まって退場する。

 

4月28日(木)

毎週金曜日に行っているリハビリセンターが、明日は祝日で休みなので、振り替えで出席した。

 

木曜日は金曜日より利用者が多く、金曜日のストレッチや体幹下肢トレーニングのスペースが狭かった。

 

木曜日の理学療法士さんは、二人で、一人は私を指導してくる若い男性、もう一人は火曜、木曜に出勤する若い美人の女性だ。この女性の理学療法士さんとは、振り替えの日しか会わないが、会うと色々雑談する。

 

下肢のマシントレーニングをしていて、何気なく彼女の手を見たら、左の薬指に指輪が嵌められているのを発見した。「○○さん(彼女の名前)結婚してたんだ~。キャピキャピのハタチ前後のお嬢さんかと思ったよ~」と言うと「もう歳ですよ~」と謙遜する。

 

今どきの女性は、みんな本当に若くて美しく見える。昨年秋にここを辞めて博多へ引っ越した看護師さんも、この彼女と双子のようにそっくりで、その看護師さんも独身と思っていたら結婚していた。

 

4月29日(金)

今日は朝から雨が降り続き、終日家から一歩も出ずに過ごした。

 

孫の三姉妹の長女が中学に進学したが、部活のことで悩んでいると聞いたので、アドバイスのメールでも送ろうと色々考えたが、良い言葉が見つからずグズグズしていたら、一日が終わってしまった。

 

4月30日(土)

昨日の雨に対し、今日は朝から気持の良い晴天に恵まれた。班長の役目である自治会費集金を明日に予定していたが、明日はまたも天気が下り坂というので、前倒して本日集金する。

 

私の担当する班は、全て戸建てで固まっており、世帯数も11と少ないので、留守宅が無ければ集金は2時間とかからない。皆さんご近所さんなので、殆どの方は顔見知りであるが、道で会えば会釈して挨拶するくらいのつきあいだ。

 

集金に伺うと、連れ合いが生前懇意にしていた方からは、私の子供の現況について尋ねられたり、若干の世間話もした。

 

集金は順調に終わったが、このあと、集計、班長の徴収原簿作成と地区会長として地区内各班の集計、地区会長の徴収原簿の作成作業が残っている。

 

夜はNHK-BSPで「伝説のコンサート 中森明菜スペシャルライブ1989」を観た。明菜ちゃんの8周年ライブだ。彼女の最も脂の乗り切った時期のもので、パンチのある歌声、カッコいい振付に、明菜ファンでもある私は大満足した。

 

 

 

 

へんろ日記 12

3月27日にアップした「へんろ日記 11」の続きです。

 

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11月24日(金)(晴 風強し)(2017年/平成29年)

<33日目 松山市北条 → 今治

 

6:55 北条のO旅館を出発。

へんろ道はここから小高い山を越えていくのだが、海岸沿いの車道は瀬戸内海の眺めが良かろうとこちらのコースを取る。後で地図をよく見たら、へんろ道より距離が相当長く遠回りとなった。

 

8:10 大浦 本日の宿は、今治市内のビジネスホテルを予約してあるが、明日は天気が良さそうなので、そのホテルに連泊して、「しまなみ海道」で一日費やそうと考えた。電話すると満室で断られる。

 

今治駅周辺の他のホテルを片っ端から電話したが、全て断られた。明後日の日曜日は今治で何かイベントでもあるのだろうか? 仕方ないので「しまなみ海道」は午前中の半日で済ませ、明日の宿は今治の先の58番札所仙遊寺の宿坊を予約した。

 

8:40 松ヶ崎 瀬戸内海の写真を撮っていたら、ボソボソとした感じの一人のへんろが私を追い抜いていく。しばらく彼の後を歩き、並んだ時に話しかけると、彼は今日がへんろの初日と言っていた。

 

 

 

9:20 菊間 菊間は鬼瓦の町である。国道196号の山側に鬼瓦の工房が続き、人の背丈ほどもある鬼瓦が、宣伝の為か道路に向かって展示してある。

 

          写真ACより kozieZ400GPさんの作品

    写真ACより usshi54さんの作品

10:00 太陽石油菊間製油所 製油所を左に見ながら歩いていていたら、何と私が勤めていた会社の名前の入ったストラップが路上に落ちているのを発見した。このプラントは私の勤めていた頃、建設されたとの記憶があったが、その後メンテナンス工事が行われ、その関係者が落としたものと思われる。

 

11:50 大西郵便局 出発してから今治に電話した以外はノンストップで歩いている。歩きながらピーナッツを食べた。

 

12:00 西ノ山 スーパーと百均が並んでいる。百均でナップザック、手袋、スマホケースを買う。

 

13:10 54番札所 延命寺 納経所では、次の55番までのルートは分りにくいからと手書きの地図を頂いた。

 

55番への途中、石垣上にある巨大なマンションとお城の横を通る。(ホテルのフロントの話では、個人の所有らしい。)

 

14:15 55番札所 南光坊 今治市内のど真ん中にある都会的な寺院だ。広い境内の中は、人が誰も居らず静まり返っていた。

 

14:30 Pホテル着。フロントで明日の「しまなみサイクリング」について話を聞く。自転車をレンタルしてくれるサンライズ I にも電話をし、朝歩いて I へ行って自転車を借り、帰りは駅に返却することとする。

 

17:30 3年前に泊まった時は、ホテル内に食事のできるレストランがあったが、今は夜はやっていないとのことで、市内の繁華街のレストランに行く。エビフライ、ホタテフライ、サラダ、ビールなどを注文したが、何れも量が多く、残してしまった。

          

 

33日目の歩数: 49,400 歩    歩行距離: 32.1 ㎞

 

 

11月25日(土)(晴)

<34日目 今治市しまなみ海道→58番仙遊寺> 

 

しまなみ海道」は広島県尾道市愛媛県今治市の間に浮かぶ島々を、九つの橋でつなぐ70㎞のルートで、本州と四国を結ぶ連絡橋では唯一自動車以外に自転車及び歩行が可能な橋である。特にサイクリストにとっては聖地として憧れのルートだ。

 

 

私は初回のへんろの時もへんろを中断して「しまなみ海道」を訪れてみたかったが、その時は本降りの雨に降られて断念した。

 

今回は天候に恵まれたので、三年越しに行くことができた。

 

5:50 ホテルに荷を預け、未明の暗い道をナップザックのみの軽装で、歩いて出発する。身軽なので非常に快調に歩ける。

 

7:00 橋の入り口到着。自転車をレンタルしてくれるサンライズ I の開業は8時なので、一時間待つのはもったいなく、サイクリングは止めて歩いて橋を渡ることとする。(サンライズには自転車の予約はしていなかったので、問題ないと思う。)

 

しまなみ海道」は地上からかなり高いところにあるので、大きなループを二回りして橋上の高速道路に到達する。

 

 

日の出直前の瀬戸内来島海峡の眺めはすばらしく、この時間、車も自転車も一台も走っていない。ここから尾道方面に向かって、自動車道の脇に設けられた自転車、歩行用通路を進む。

 

 

 

 

8:00 この時間になると、今治から尾道を目指すサイクリストが徐々に現れ始めたが、歩行者は一人もいなかった。大島を目の前にした橋上で休憩する。鶏五目のおにぎり、玉子サンドを食べてここで引き返す。

 

 

瀬戸内の小島は紅葉も始まっていた。

 

 

 

10:35 ホテル帰着、荷作りをして11:15へんろ再開

 

12:05 56番札所 泰山時 派手さは無く地元に根付いたお寺のようだ。

 

12:55 57番札所 栄福寺 この寺の住職・白川密成さんは作家でもあり、著書の「ボクは坊さん」は映画化もされた。

 

門前の土産物屋でうどんとアイスクリームを所望する。食べながら店の女主と雑談をした。(今治に新設予定の今話題の加計学園の話など)

 

14:30 58番札所 仙遊寺 

 

 

 

境内のモミジは、この旅で一番紅葉していた。

 

 

 

宿坊には、私が一番に到着。宿泊客は、個人4名、少人数の団体15名程度だった。

 

この宿坊は、隅々まできちんと掃除され、清潔で実に気持ち良い。風呂は温泉ホテル並みの豪華さで、大きな窓からは今治周辺が一望でき、夜は夜景も楽しめる。

 

ただ、惜しむらくは、食事が完全な薄味の精進料理で、味は私にはイマイチであった。

 

 

34日目の歩数: 48,320 歩    歩行距離:31.4 ㎞

 

 

 

11月26日(日)(曇→雨)

<35日目 58番仙遊寺西条市小松> 

 

6:00 宿坊に泊まった時は、お寺のお勤めに参加する。住職の長い法話が終わった時は6:50、朝食は山菜のお粥だった。

 

7:25 仙遊寺出発 お寺からの山道を下る時、暑くなって上着を脱ぐ。

 

8:35 59番札所 国分寺 四国の各県に一つずつある国分寺、ここは装飾的な物は一切なく、シンプルで幾何学的な感じのお寺さんだ。

 

10:35 世田薬師 ここまで何とかもっていた雨がパラパラ降り出した。雨支度に切り替える。

 

11:50 三芳(みよし) 集落の中心にあるスーパーに立ち寄り、太巻き、メロンパン、赤飯等を買い、イートインできるお店の一角で食べる。地元のオジサンから「どこから来たの?」と声を掛けられ、しばらく相手する。穏やかで純朴な感じのオジサンだった。

 

12:20 日切大師 この辺りは東予地方の、のどかな田舎町で、人の良さそうな住人が行き交っていた。同じ方向に歩いていた中年の女性に話しかけられ、「今日は何処まで行くの?」と訊かれ、宿の名前を言うと、「そこまで車で送ってあげる」と言われた。

 

お言葉に感謝し、大変ありがたいが、へんろの途中ということで、鄭重にお断りする。

 

13:30 丹原池田集会所 農村集落の中の集会所だ。田んぼの中の、いかにも田舎田舎したところだ。

 

14:45 小町温泉 S旅館着。 温泉と言っても天然温泉ではなく、スーパー銭湯のようなところ。それでも風呂は広い大浴場、岩造りの露天風呂があり、温泉気分に浸ることができた。夕食は松茸、サザエの刺身等見た目は豪勢。アルコールはいつものビールをやめて清酒にする。  

 

 

35日目の歩数: 45,500 歩   歩行距離: 29.6 ㎞

 

 

             ー続く(非定期)ー

甲斐路サクラ巡り

私の町のサクラは、ピンクの花びらが散って、すっかり葉桜になってしまった。 

 

4月9日(土)から三日間の日本列島は、大きな高気圧に包まれ、全国的に好天に恵まれるとの予報が出たので、久しぶりにドライブでもしてみたい気分になった。当地よりも標高が高く、気温も低いであろう山梨県のサクラはまだ見ごろではあるまいかと、山梨県のサクラを見に行くこととする。

 

山梨県の「桜の名所ランキング」から4位の「慈雲寺のイトザクラ」と2位の「山高神代桜」を目的地とした。3位の「わに塚のサクラ」も候補に挙げたがネットの開花情報は葉桜とあったので、今回は止めた。

 

4月10日(日)

夜明け前の暗いうちに出発し、中央高速に乗ったころ、周りが少しずつ明るくなり始めた。今日は日曜日で、大きなトラックはほとんど走っておらず、行楽の乗用車もさすがにこの時間はまだ少なく、頗る快適なドライブを楽しむ。

 

勝沼ICで降り、ブドウ畑の中の道をJR塩山駅へ向かう。途中甲府盆地の先に雪を冠(かむ)った南アルプスを背景にしたモモ畑が続く。

 

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塩山駅から東に向かって丘陵地帯を登っていくと中萩原の集落から少し外れたところに、そのお寺があった。周りは菜の花畑、モモ畑、に囲まれ、南アルプスが遠望できる気持の良い場所であった。朝日が昇るころ到着する。

 

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<慈雲寺>

慈雲寺は、南北朝時代14世紀に無窓疎石によって創建されたと伝えられている禅宗臨済宗の寺院である。文化財に指定されている室町時代の絵画等を所有し、境内には天然記念物のイトザクラや樋口一葉の文学碑がある。

 

① イトザクラ

樹齢330年、高さ14mのしだれ桜、糸が垂れたように淡い紅色の花をさかせることから、イトザクラ呼ばれている。

訪れた時は、満開から既に一週間過ぎていて、シダレの花びらも少なくなっていた。満開時に根本から上を見上げると、桜の天蓋のように見えると言う醍醐味は、残念ながら味わえなかった。

 

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甲州市観光協会が提供している満開時のイトザクラの写真

 

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② 樋口一葉

ここ(大藤の里)は、樋口一葉両親のふるさとで、一葉の死後大正11年に両親ゆかりの慈雲寺に「樋口一葉文学碑」が建立された。

 

案内看板によると、撰文は明治文壇の重鎮幸田露伴が手がけ、裏面にはこの文学碑建設に賛同した明治の名だたる文豪の名前が連ねてある。これは当時最も新しい形の碑文で日本最高の文学碑といわれている。

 

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平成になって、樋口一葉の肖像が新五千円札に採用されたことを記念して、塩山市甲州市の前の名前)が、ここに 一葉の記念碑を建造した。

 

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③ イトザクラ以外のサクラ

イトザクラは満開を一週間余り過ぎていたが、境内のシダレザクラは今が満開とばかりに咲き誇っていた。

 

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さて、次の目的地は「山高神代ザクラ」のある北杜市実相寺だ。ここ甲州市慈雲寺から実相寺へは、一般道を通って西へ、山梨市、春日居町甲府市韮崎市を経由して北杜市に至る。道路は空いており、1時間半で実相寺に着く。

 

<実相寺>

実相寺は日蓮宗総本山身延山久遠寺の直末の寺院である。

 

寺の由来は、1375年身延山の日應上人が山高村大津にあった真言宗の寺を訪れ、住んでいた真理訪印と法義を論じ合い論破したことによりこの寺を譲り受け、この時日蓮宗に改宗し「大津山実相寺」と称したとある。

 

江戸時代入り、この寺の境内地に武田家の末裔・山高氏が居住していたが、山高氏が江戸に移った後今のお寺が建てられた。その後二度の火事に合っている。

 

① 山高神代ザクラ

樹齢2000年とも言われるエドヒガン種の古木で、日本三大桜の一つとされている。(他の二つは、福島県三春町の「滝桜」、岐阜県本巣市の「薄墨桜」)大正11年にサクラとして初めて国指定の天然記念物となった。高さ10.3m、根元幹周11.8m

 

日本武尊ヤマトタケルノミコト)が東国へ遠征された際、当地に立ち寄られ、記念にこのサクラをお手植えされたとの伝説から「神代」と言う名前がつけられたようだ。

 

鎌倉時代には、日蓮上人がこの地を訪れた時、サクラの衰えを見て憂い、樹勢回復を祈願されたところ再生し「妙法桜」とも呼ばれたとの言い伝えもある。

 

神代ザクラの極盛期は、幕末から明治初期と考えられるが、天然記念物に指定されると、コンクリートの囲柵や石積がされ、発育条件が阻害され皮肉なことに樹勢は衰えていった。そして昭和23年「3年以内に枯死」と宣告される。

 

その後も、昭和34年の台風7号では、神代サクラの主幹が折れるという被害を受け、隣接道路の車の往来により樹勢が益々衰弱し、ついに平成14年度から17年度の4年間土壌改良工事をはじめとする「神代ザクラ再生事業」が行われた。

 

そして、16年が経ち、今年もまた春が来て、悠久の時の流れを生きた神代ザクラが花を咲かせている。

 

駐車場から境内に入ってまず目に入ってくるのが、「神代ザクラ」の巨大な岩石のような根本だ。その岩から幾本もの幹が生えているように見える。2000年の年月の凄さが伝わって来た。花びらの一枚一枚に2000年の命が宿っているのかと思うと、他のサクラとは違った厳かな気分となる。

 

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② 神代桜の宇宙サクラ

2008年11月、神代桜の種がNASAからスペースシャトルに乗って宇宙に旅立った。そして、国際宇宙ステーション日本実験棟で約8か月無重力の状態で過ごし、2009年7月に宇宙飛行士若田光一さんとともに帰還した。

 

その種子を全部植えて様子を見たところ、2粒が発芽した。そのうちの一粒が実相寺境内に植えられ、花を咲かせるまでに成長した。

 

そして、花びらは通常5枚だが、一部に6枚の花びらが見つかっている。仏教の中には、六道という六つの世界があると言われている。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間そしてもう一つが天上界。「地球を離れて天上の世界を回った種が、六枚の花びらをつけると言うことは、一枚は天上の世界を意味しているように思える」と実相寺住職は語っている。

 

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③ 身延山しだれ桜の子桜

実相寺と縁の深い日蓮宗総本山・身延山久遠寺のしだれ桜(全国的にも有名な桜)の子供桜

 

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④ 実相寺境内のスイセン畑と桜並木(遠景の山は鳳凰三山

 

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⑤ 実相寺近くの畑からの眺め

右は甲斐駒ヶ岳だが、左の雪をかぶった山は私は仙丈ケ岳と思うのだが、地元の人に訊いても分からなかった。(早川尾根の一部のようなことを言う人もいた。)

 

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実相寺のサクラを堪能して帰路につく。

 

 

 

 

 

 

自治会

この4月から自治会の、地区長、班長を務めることとなった。

 

私が属する自治会は、構成員が555世帯から成っている。それが12地区に分割され、それぞれの地区は5~10の班に分かれる。私の家は6地区3班にある。

 

3班の班長は、3班の11軒が一年毎に順番で務める。地区長は6地区の6班の中から、一年毎に地区長を出す班が順番で決まる。3班から地区長を出す年は、その年の班長が地区長も兼務するというしきたりだ。

 

今年は我が家が、班長になる年で、しかも3班が地区長を出す年に当たり、地区長も務めることになってしまった。

 

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          写真ACより kyooさんの作品

 

私の自治会の組織は、会長、副会長(7人)会計の役員の下に地区長、班長、会員で構成される。

 

さて、私が務めることになった班長、地区長とは如何なることをするのかというと、自治会会長名で送付された「自治会役員の役割について」によると、

 

①定例地区長会の出席(毎月1回)

②回覧物の配布

自治会費の集金

自治会事業の参加、運営、勧誘

⑤自主防災隊

⑥公園清掃

⑦新規入会の対応

⑧一般会員からの意見要望集約

 

とある。この中で④は、盆踊り、神社のお祭り、町民運動会、親睦旅行、クリーン作戦、防犯パトロール、防災訓練・・・と多彩な事業が並んでいる。

 

昨年はコロナ感染流行の為、盆踊り、神社のお祭り、町民運動会、防犯パトロール等が中止となった。

 

今年も又コロナで中止になるかもしれないが、例年のように全て行われたならば、忙しい思いをすることとなる。各事業は副会長が企画して仕切るので、地区長はその補佐をすることになるのだが、それでも自治会活動のために相当なマンパワーを割(さ)く必要がある。

 

毎年自治会役員の成り手が居なくて大変との話も聞くが、このように事業が多くては無理もないことだと思う。

 

近所付き合いというと、名古屋の実家に住んでいた頃は、生前の母親が社交的で絶えず近所の奥様連中とお喋りして、近所の方々とコミュニケーションを図り、各家庭のプライベートなことまでかなり詳細に把握していたようだ。どこかへ行った時などは、土産物等を近所に配り、ディープな付き合いをしていた。

 

当地へ引っ越してからは、連れ合いが生きていた頃は、それなりにお喋りもしていたようだが、亡くなってからは、御近所さんに路上で会えば、挨拶を交わす程度の極(ごく)軽いものになっている。

 

12年前、当時自治会長だった二軒隣のご近所さんから、副会長就任の依頼を受けた。私は当地に引っ越して以来、班長しかしたことが無く、自治会の事業にもほとんど参加してこなかったので、お断りした。

 

その後も会長さんから熱心に勧誘を受け、ここに30年以上暮らしていていながら、地元に何も貢献していなかったことに気づき反省し、一年限りという条件で引き受けることにした。

 

当時、副会長は現在の7人に対して3人で、先に記した事業を全部やったので、初めてのことで慣れないこともあり、かなり手こずり大変忙しい思いをしたが、何とか一年務めた。翌年今度は会長の打診があったが、一年限りの約束を理由に固辞した。以後また元の状態に戻り、自治会の事業には参加していない。

 

副会長が決まった時に、少しはこの地域のことを知っておこうと調べてみた。

 

まず、当地の歴史は、江戸時代17世紀中ごろ、江戸の町人が当時原野だったこの地を開墾して新田を作り村ができ、昭和16年に町となり、昭和29年に現在の市に編入されて市の一部になった。

 

昭和30年頃から、新田集落周辺の農地は市街化が進行し、農村風景は急速に失われたようだ。

 

私がここに引っ越してきたのは、今から44年前の昭和53年である。当時はもう農地は全く見当たらず、先祖代々受け継がれた地元地主さんの大きな屋敷の周りに、私のような他所から引っ越してきた新住民の住宅が町を形成していた。

 

その頃は、空き地が沢山存在し、少年野球やドッジボールの練習場、駐車場に利用されていた。その後それらの空き地は、新しい住宅が建てられ、近くに大学ができたこともあって、学生目当てのワンルームマンションも多く建設され、空き地はほとんど無くなった。

 

昔からの地主さんのお屋敷は立派なものが多く、その内の一つは、敷地が瓦付きの白い土塀で囲まれ、和風の大きな母屋と離れ、そして白い瀟洒なピアノの音色が聞こえてきそうな洋館もあった。

 

広い庭には市の保存樹木にも選ばれただろうケヤキの大木が聳え、塀の内側には沢山のハクモクレンや梅の木が植えられていた。塀の外側は駅へ向かう道路なので、これらの花を見ながら通勤していた。早春の頃、ミルクのような濃厚な白いハクモクレンが満開になった様は艶やかで、目の保養になり、通勤時の楽しみでもあった。

 

そのお屋敷が、数年前取り壊されて、跡地に5階建て約50世帯の高級マンションが建った。こんなに大きなお屋敷なので、相続税等の税金対策であろうとの噂があったが、土塀の外から花を楽しませてもらっていた者にとっては、寂しい限りだ。

 

ともあれ、班長、地区長を一年間頑張ろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春麗ら

このところ、暖かい日と寒い日が交互にやって来て、日々の寒暖の差が激しく、着るものも春物にしたり、冬物に戻ったりと忙しい。

 

海外のウクライナ情勢は、ロシアの侵攻から1か月以上たったが、相変わらずロシアの非人道的な攻撃が続いている。

 

国内のコロナは、第六波の新規感染者は減少傾向にあったが、3月下旬には前の週の感染者より増加する日が続き、リバウンドの兆しも見られ、今後の予断を許さない状況だ。

 

4月の新年度となり、各企業、自治体には、フレッシュな新人が加わって、新しく始動し始めた。多くの学校は、今週には入学式が行われ、新1年生が誕生する。私事で恐縮だが、私の孫の3姉妹も、長女は中学校、三女は小学校に入学する。めでたいことだ。

 

新型コロナで、行動制限がされるようになって、三回目の春がやってきた。今年の冬は寒かったが、時が巡りの春ともなれば例年通りサクラが咲いて、我が町は今がサクラの満開だ。

 

そんな春麗らの晴れた日に、近所を歩いて春を楽しんだ。

 

団地の一本桜

去年から見に行くようになった。幹回り4.34mの堂々とした一本桜だ。いつ行ってもこのサクラの周りには誰も居らず、見物人が居ようが居まいが「私には関係ありません」と言っているようで、毅然と咲いている。

 

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②メインストリートの桜並木

例年であれば、この通りの車の乗り入れを遮断して、「市民サクラ祭り」が開催されるのだが、コロナ以降三年続けて祭りは中止となった。今の時期この通りを車でゆっくり走りながら花見をする市民が多く、道路は車で渋滞する。(この写真は車の少ない早朝に撮った。)

 

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③公園のモクレン

公園のモクレンもサクラに負けずに満開に咲き誇っていた。

 

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④道端のハナモモ

丈の高いピンクと白のハナモモ

 

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シダレザクラの大木

10年以上前にウォーキングをしていて、市街地から離れたところに、一本の古いシダレザクラがあることを発見した。発見した当時は、花びらがもっといっぱい密についていたと記憶するが、近年は少なくなった気がする。

 

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⑥川端のサクラ

小さな川の岸辺にサクラが纏まって咲いていた。

 

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⑦ラッパスイセン

⑥の近くで見つけた鮮やかな黄色のラッパスイセン

 

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⑧道端の花壇

地元の愛好家が丹精込めて作った花壇

 

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⑨かたくりの里

友人から「かたくりの里」へ行ってきたとの写真を添えたメールが届いた。そこは我が家から近いが、20年近く行っていない。土曜日の朝、一週間分の買い出しに行く予定を変更して、午後の卓球に間に合うように行ってきた。

 

20年前は、民家の裏山にカタクリの花がひっそりと自生しているだけの静かな場所であったが、今はカタクリ以外にミツマタミツバツツジ、ハナモモ等の色とりどりの樹木が植えられ、それらが咲いて綺麗な花の丘陵を形作っていた。カタクリは残念ながら盛りを過ぎていた。

 

カタクリ

 

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ミツマタ

 

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ミツバツツジ

 

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・ヤマブキ

 

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・ボケ

 

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・その他園内の様子

 

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へんろ日記 11

3月13日アップした「へんろ日記 10」の続きです。

 

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11月21日(火)(晴)(2017年/平成29年)

<30日目 久万高原町

 

7:00 朝食 宿で朝食を摂るのは、宿毛の旅館以来5日振りだ。

 

7:30 出発 若女将に見送られて出発。外は寒い(-2℃) 昨日44番大寶寺は済ませてあるので、直接45番札所岩屋寺へ向かう。

 

岩屋寺は、山間(やまあい)の奥まった所にあるので、岩屋寺を経由して次の松山方面へは行けない。松山へ行くには、岩屋寺を往復し、一旦大寶寺近くまで戻って、国道33号を北上することになる。

 

8:15 峠御堂トンネル ほとんどのへんろは県道12号の車道を通って岩屋寺を往復するので、これから参拝するへんろと、参拝を済ませたへんろが道ですれ違うことが多い。

 

道路の反対側を歩いていたへんろとすれ違った。足摺岬手前の久百々で同宿した横浜へんろではなかったかと思ったが、声をかけ損じた。

 

9:30 ゴルフ場前バス停 岩屋寺へのルートは、この車道と、山中の「八丁坂」という険しい山道(修験の道)がある。3年前の初回は往復車道を使ったので、今回は行きは「八丁坂」から岩屋寺へ入り、帰路は車道を使う予定であった。

 

ところが、車道から「八丁坂」へ入る入口を見落としてしまったので、「八丁坂」は帰路に通ることとする。

 

10:05 門前下橋 岩屋寺の麓に土産物や甘味処のお店が並んでいる。その内の一軒でアンパンを買ったが、お金を支払う時に外した手袋を、この店に忘れてしまった。

 

10:30 45番札所 岩屋寺 ここは標高700mにある岩山全体を霊地とし、弘法大師の時代より山岳修行の場として、多くの修行僧の信仰を集めてきた寺だ。岩をくり抜いた穴で修行をした跡もある。お寺も崖の中腹に、岩山にめり込むように建っている。

 

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バスや車で来た参拝者は駐車場から寺まで急な坂道を2~30分かけて登らなくてはならない。年配の方や足の悪い参拝者にとっては、過酷な坂道だ。

 

10:45 八丁坂 参拝を済ませ、いよいよ八丁坂、岩屋寺の裏手から道が始まるが、標識が何もない。しばらく行くと不動明王を祀った祠があった。

 

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   (この写真ではよく分からないが、奥に赤い不動明王像がある)

 

修験道の道と言うので、鎖場とか崖の道とか、かなり険しい道を想像していたが、今まで通って来た山岳のへんろ道とそんなに変わらなかった。

 

12:00 八丁坂の尾根から下ったところで、この一週間くらいの間に何回も宿で同宿した横浜へんろに会う。彼はこれから八丁坂を登って岩屋寺へ向かうと言う。

 

12:45 県道12号

 

13:55 国道33号

 

14:20 ホームセンター K 昨日の雨中歩行で、雨具のセパレートズボンが破れてしまったので、作業用のレインズボンを、撥水スプレー、手袋とともに購入する。

 

15:30 T庵 着。この宿は松山と久万高原を結ぶ国道33号の三坂峠トンネルを建設した時に、ゼネコンが仮設事務所として使用していた建屋を、工事終了後に遍路宿に改装したものだ。

 

入り口に薪ストーブがあって、薪ストーブの柔らかい穏やかな温もりが何とも言えずに心地良い。

 

主(あるじ)はまだ若く(40台位か?)個性的で、夕食時、遍路の近況を語ってくれた。最近は歩きへんろの数が減少し、へんろ宿としての経営は厳しくなっていると言っていた。(今日も客は私一人)

 

 

30日目の歩数 46,500歩    歩行距離 30.2㎞

 

 

 

11月22日(水)(曇→雨)

<31日目 久万高原町松山市道後>

 

5:30 朝食 ここも、6時前に朝食にしてくれて助かる。

 

6:05 出発 天気予報では、11時頃から雨なので、出発時から昨日買ったレインズボンを穿く。見た目普通のズボンと変わらず、防寒にもなることを知る。

 

6:40 三坂峠 峠から少し下ったところで、松山市とその向こうの瀬戸内海・伊予灘が見える。今までこの旅で見てきた海は、太平洋・土佐湾宇和海だったので、又新しい海と出会えることが嬉しい。

 

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7:20 休憩所近くの碑 碑文には「石濱典夫氏記念碑」とあるが、よく分からない。

 

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8:45 46番札所 浄瑠璃寺 小さなお寺ではあるが、境内は掃き清められ、こざっぱりしていて気持ち良い。参拝後、鐘を突く。納経所の和装の女性は、品があって優しく対応してくれ感じ良かった。

 

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9:15 47番札所 八坂寺 46番からわずか15分の距離にある。

 

次の48番に向かう途中、重信川の長い橋の半ばあたりから雨が降り始める。

 

10:20 48番札所 西林寺 雨が本降りになってきた。始めさんや袋をレインコートで被せていたが、レインコートを後ろ前に着て、さんや袋を雨から守る。

 

10名程の男性団体へんろ(地元の人達か?)が、私の後ろに付いて来る。何だか落ち着かない。一人で気ままに歩きたい。

 

11:30 49番札所 浄土寺 平安時代中期に「南無阿弥陀仏」を唱えて人々に念仏を広めた空也上人と縁深く、空也ゆかりの事物が多く残る寺である。

 

その中でも、重要文化財に指定されている寄木造りの「空也上人立像」は、口元から「南無阿弥陀仏」の6文字の念仏が仏の姿になったということを表わしている。(空也が創建したと言われる京都の六波羅蜜寺にも同形の像が所蔵され、そちらの方が有名で教科書にも載っている。)

 

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参拝を済ませ、納経所の横で休憩していると、出張で松山にきて、この寺に立ち寄ったと言う男性に声を掛けられる。歩きへんろの途中だと告げると、その人は非常に驚いた様子だった。

 

49番から50番に向かう時、雨はザーザー降りとなる。五木ひろしの「夜明けのブルース」を替え歌にして「ここは松山!土砂降りの雨~」と、ヤケクソ気味に鼻歌で歌いながら歩いていたら、道を間違え、遍路標識を見失ってしまった。

 

道を訊こうにも、この雨で誰もいない。雨宿りの出来るところで、スマホのグーグル地図から現在地を確認し、何とか50番に辿り着く。

 

12:30 50番札所 繫多寺

 

13:20 コンビニ L コンビニでおでん(こんにゃく、じゃこ天、ちくわ、じゃが芋)を買い、ここはイートインできないので、店の外で立ち食いする。

 

雨は一段と強くなる。この辺りは松山市の住宅街の大きな通り、車の往来は多いが、雨もあって人は誰も歩いていない。一昨日人気(ひとけ)のない雨の山の中で、冷たい昼食を採って侘しく寂しい思いをした。今日は降りしきる雨の中、コンビニの外でおでんを一人で立ち食いしている自分を想像すると、車で私を見た人からは、哀れでみすぼらしい姿と思われるだろうなと思った。

 

13:40 51番札所 石出寺 ここは、松山の道後温泉近くの繁華街ど真ん中にあるお寺だ。巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い。

 

国宝の仁王門をくぐると、参道は土産物店が並んだ仲見世となっており、その先が重要文化財に指定されている本堂、三重塔、鐘楼などがある境内だ。

 

雨が益々強くなってきたので、急いで参拝を済ませ本日の宿に向かう。

 

14:30 ビジネスホテルS 道後温泉ホテル街の中のビジネスホテル。「坊ちゃんの湯」も直ぐ近くだが、前回そこで入浴したので、今回はホテルのバスにする。

 

案内された部屋へ入ってびっくり、まず部屋が広い。ベットはダブルサイズ、ビジネスホテルでは通常、バスとトイレは同じ部屋であるが、ここは別々、浴室も広く、浴槽も大きくゆったりとしている。

 

シティホテル並みの設備だ。フロントが部屋を間違えたかと思い電話したが、間違いないとのこと。立地も道後温泉のど真ん中で、宿泊費は、素泊まり4800円。この辺り競争が激しくて、こんなに安いのか?

 

16:30 ホテルで入浴後、道後温泉アーケード街の鉄板焼き屋に入る。ステーキ、お好み焼き、焼きそば、ビールを注文。味は△だった。

 

 

31日目の歩数 48,100歩   歩行距離 31.2㎞

 

 

 

 

11月23日(木)(晴 風強し)

<32日目 松山市道後→松山市北条>

 

6:05 ホテル出発 昨日あんなに降った雨も上がっていた。まだ暗い松山の市街地を西進する。

 

7:10 JR予讃線三津浜駅 この辺りは松山市の住宅街で下町の感じがする。駅前の広い道を北進すると次第に家が少なくなり、小高い山のゴルフ場横を通過する。

 

8:10 52番札所 太山寺 どっしりとした本格派の寺院といった感じで、私の好きなお寺の一つだ。

 

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徳島から車でへんろを続けているというご夫婦と話ををし、歩きへんろを労われた。

 

3年前にこの寺を訪れた時、納経所で墨書授印して頂いた長い髪の若い女性が、それはそれは美しく素敵な方だった。(へんろ仲間の噂では、彼女はお寺の娘さんだとか?) 今回また会えるかと期待したが、その方は納経所にいなかった。

 

9:05 53番札所 円明寺 下町の民家の中に有る比較的小さなお寺。

 

10:00 堀江海テラス 今日の宿には早く着きそうなので、海の駅ということで、寄り道したが、今日は休日で休業していた。その後北上したが、海沿いの道は風が強く、笠が飛ばされそうになり、手に持って歩く。

 

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11:20 ホームセンターK 靴修理接着剤を捜したが、無かった。手袋を買う(4回目)

 

12:30 床屋 道路を歩いていると、道沿いに床屋さんがいっぱいあり、今日は時間の余裕もあるので、その内の一軒に入る。74才の旦那さんと、久万高原出身のおかみさんが、散髪と髭剃りをしてくれた。マッサージもしてくれ、気持ち良くて眠ってしまいそうになる。

 

14:00 北条の瀬戸内海(伊予灘)の海岸を見に行く。風が強く穏やかではなかった。

 

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14:20 旅館O 到着 宿の女将は首を保護カバーで吊って対応してくれる。「どうしたの?」と訊くと、「仕事のし過ぎ」と答える。人の良さそうなオバサンだ。

 

この旅館は前回も泊まったが、料理が美味しい。鯛めしが名物らしいが、宇和島のそれと違って鯛をご飯に炊きこむものだ。私はこちらの方が好きだ。

 

横浜へんろと又も同宿だ。夕食時は彼と対面して食事する。料理は今日も海の幸満載で美味しかった。彼はお酒好きだが、へんろ中は酒を断っているので、私だけ鯛のひれ酒を3杯注文した。 

 

 

32日目の歩数 43,000歩   歩行距離 27.9㎞

 

 

 

           ー続く(非定期)ー

春の彼岸の頃

ロシアがウクライナに侵攻して3週間たった。ロシア-ウクライナによる停戦交渉は続けられてはいるが、ロシアは、ウクライナ南部の都市で1000人以上の住民が避難していた劇場を爆撃したり、ウクライナ全土の病院、学校等を無差別攻撃している。全く持って言語道断で、ロシアは厳しく糾弾されなけばならない。

 

ロシアはウクライナ首都キエフの陥落が思うようにならず、焦って更なる無差別攻撃が激化するのではと懸念される。何とかならないものかと胸が痛む。

 

コロナに関しては、国内の新規感染者が、17日現在まだ5万人ほどいるが、21日で全国のまん防法(蔓延防止法)適用自治体が全て解除されると発表された。まん防法自体がコロナ抑止にどれほどの効果があるのか疑問視されていたので、今後まん防法の予算がよりコロナ対応に適したものへ転換されるのなら良いことだと思う。

 

大統領選挙で保守系候補を選出したお隣韓国では、コロナの感染爆発が起きていて、3月17日一日の感染者が60万人を超えたとのニュースが伝わった。人口が日本の半分以下の国での60万人は、日本の120万人以上に相当する。韓国は3回目のワクチン接種が日本より進んでいるはずなのに、どうしてだろう?

 

 

3月14日(月)

録画したまま、そのままになっていた映画「ディア・ハンター」を観る。

 

1960年代、ペンシルバニアの製鋼所で働く男たちの、ベトナム戦争へ出征する前、戦争に行った時、心に傷を負って帰還してからの生活を描いている。

 

主演はロバート・デ・ニーロ、私の好きなメリル・ストリープも出ている。この作品は、第51回アカデミー賞で作品賞など5部門を受賞した。

 

この映画には、ロシアンルーレットの場面が二度登場する。いずれもその緊迫感溢れる描写には、画面に引きずり込まれた。

 

テーマ曲は「小さなピアノの詩」、戦争を扱った映画の曲とは思われない静かで優しいピアノのメロディが、心に沁みとおり耳に残る。リチャード・クレイダーマンのアルバムにも入っていた。

 

映画は、戦争の恐ろしさ、危うさ、愚かさ、虚しさを訴えているようだが、今行われているウクライナの戦争にも当てはまる。

 

3月15日(火)

先週から一気に暖かくなり、四月頃の陽気という。

 

S卓球サークルの練習会に出かける。

 

このサークルのメンバーは、10名であるが、皆さんスマホになったので、代表がLINEのグループを作った。代表は、連絡が一度で済み、便利になったようだ。10名ともなると皆さんそれぞれ個性的な書き込みで、トークが盛り上がって楽しい。

 

3月16日(水)

18日の金曜日が、病院受診日なので、午前中リハビリの振り替えに行って、汗を流した。

 

夜、22時半頃就寝して、眠りについた23時半、地震の揺れを眠りながら感じる。だんだん強くなり横揺れもして目を覚ます。横になったまま、起き上がって避難すべきか頭を巡らしているうちに揺れがおさまった。

 

ラジオをつけると、震源は東北沖で、宮城県福島県震度6強を観測し、津波警報も出ているとのこと。「すわ!東日本大震災の再来か?1週間前に震災から11年の行事をしたばかりなのに・・・」と思う。

 

「現地の人は大変だな、こんな夜中に避難とは」と同情しつつも、避難している人には申し訳ないが、眠気が襲ってそのまま眠ってしまった。

 

翌朝の報道で、私の住んでいる町の震度は4だったと知る。現地の津波は1m以下で津波の被害は無くてよかった。東北新幹線は脱線し復旧に時間はかかるようだが、人的被害が無く不幸中の幸いだ。

 

 

3月17日(木)

朝8:30から、SCTテニスサークル練習会の日であるが、ダブルスのゲームを時間までやって終了した後、会員全員が集まって総会を開いた。このサークルの代表と会計は、月ごとに交代し、今月は私の当番だったので、総会は私が招集した。

 

議題は、「コーチが体調不良で退任することとなり、その後のサークル活動について」である。

 

コーチが休みの時は、会員同士でダブルスのゲームをしていたが、最近は、会員の中に体調が優れなかったり都合で休む人が増え、ダブルスゲームの最低人数4人を確保するのがやっとという状態になっていた。

 

そこで、

・今月3月31日をもってサークルは解散とする。(2万円弱の会費残高は、現会員に均等配分)

・ゲームだけでも続けたいという者は、新しい会を立ち上げ、コート予約は、4人以上参加者が確定したら当日事務所に申し込む。

という案を提案する。

 

解散については全員賛同したが、新しい会への参加希望者は4人集まらなかった。新しい会ができれば、その世話役を務めてもいいかなと思っていたが、それもなくなり、サークルは解散すると正式決定した。

 

私はこれまで、六つのテニスサークルに所属してきたが、このSCTサークルが一番初めに参加したサークルなので、思い入れもあり、名残惜しい。

 

私が参加した当時のSCTサークルは、精力的な女性が代表をしていて、コーチが男性と女性の2名で会員も20名近くいる大所帯だった。代表はテニス協会の役員も兼ねており大変忙しく活躍されていた。

 

その代表が、怪我をしてテニスができなくなり、代表も辞めたので、残った会員が一年毎の持ち回りで代表を務めることとなる。この状態で10年位続いた。その間、会員が減少した時は市の広報で募集して補充した。

 

コーチは女性コーチが初中級を、男性コーチが中上級を担当した。男性コーチの出身は香川県三豊市で四国遍路の第70番札所本山寺の近くということで、私が四国遍路から帰ってテニスに再参加した時には自分の故郷を懐かしんでおられた。

 

その男性コーチが2年前、体調不良から車の運転に支障がでて、コートへ来ることが難しくなって退任した。その後女性コーチ一人に面倒を見てもらっていたが、今回その彼女も体調不良で退任することとなった。

 

ある程度年齢を重ねると、それまで当然のように出来ていたことが出来なくなる。悲しいことだ。

 

 

3月18日(金)

昨日までの一週間は、最高気温が20℃を超える日が多く、4月頃の暖かい日が続いたが、今日は一転して1月の気温となった。

 

今日は年2回受けているペースメーカー検診の日だ。自宅を出発すると雨が降り始め、外気温は5℃、真冬の寒さだ。

 

心電図を測定してから、ペースメーカー計器の検査を受けるまで2時間以上待たされる。検診では、幸い計器の不具合は認められず、電池の寿命は後3年程と言われた。次回(9月)の予約をして終了。

 

今日は彼岸の入りで、病院の帰りに墓参りに行くつもりだったが、この雨でどうしようか迷う。彼岸中の予定が詰まっているのを思い出し、予定通り行くことにする。

 

いつもの花屋さんで、お供えの花を買い、霊園に着いた時、雨は本降りとなっていた。広い芝生の墓地には、参拝者は私の他は、年配の女性一人しかいなかった。

 

傘をさしながら花を供え、般若心経を読誦する。冷たい雨が降りしきる中しばらく佇んだ後、「来月の命日にまた来るから」と告げお墓を後にする。

 

 

3月19日(土)

午前中は、いつものように一週間分の買い出しにスーパーへ行く。土日のポイントは3倍なのだが、今日は5倍だった。主婦感覚で嬉しい。

 

午後は、H卓球サークルの練習会。同じ年の友人が今日は休みで、彼がいたら、会の後にMACでコーヒーを飲んで雑談をするのだが、それが叶わず残念だ。

 

東京のサクラの開花予想は3月20日(明日)と発表されている。去年写真に撮った団地の一本桜はどうなっているのだろうと、練習会終了後に見に行く。開花真近のつぼみ膨らむというところか?

 

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