へんろ日記 最終回(番外編3)

11月20日にアップした「へんろ日記番外編2」の続きで、「へんろ日記」は今回が最終回です。

 

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12月12日(火)(晴)2017年/平成29年

<51日目 熊野本宮→新宮→相賀→馬越峠→尾鷲>

 

旅も終盤に入り、今日は熊野古道伊勢路で人気の高い「馬越(まごせ)峠」を歩いてみようと思う.

 

 

4:00 昨夜一軒家の民宿に一人で宿泊して起床。この宿とスナックのオーナーである若いママさん夫妻は、4時に車で京都に出発している。昨夜遅くまでへんろ話に付き合っていただいたお礼のメモを書く。

 

8:30 本宮から新宮行のバスに乗車 バスは「日本最古の湯」とも言われている「湯の峰温泉」に寄ってから、熊野川沿いの国道168号に出る。

 

最前列の運転席の隣に座って窓外の景色を楽しむ。山中の道は狭く急カーブの連続で、バックミラーが道端の岩に衝突スレスレで通過する。肝を冷やしながらも、「さすがプロの運転手さん」と感心する。

 

昨夜ママさんが作ってくれた朝食用のサンドウィッチをバスの中で食べる。美味。

 

9:50 新宮着 ここから我が家の最寄り駅までのJR切符を通しで買った。

 

10:24 JR紀勢線紀伊長島行に乗車。車内でママさんの作ってくれたもう一つの弁当「炊き込みご飯の握ったもの」を食べる。サンドウィッチもこのおにぎりもレストランかホテルで作ったもののように洒落た包装用紙に包まれ、味も抜群で大満足する。

 

11:49 相賀着 ここから馬越(まごせ)峠登り口まで、国道42号を歩く。透明度が素晴らしい銚子川の流れを眺めながら橋を渡っていて、地元の女子高校生二人連れに追いついた。学校帰りの様子、この時間だと期末試験中か?

 

並んだ時に「馬越峠登ったことある?キツイかな?」 と声をかける。普段は知らない女子高生に声をかけることは絶対ないが、旅が長くなって、声かけの抵抗感が薄らいだようだ。「尾鷲側から登ったけれど、キツクてバテました。」と笑顔で答えてくれた。

 

12:30 登山口 登り始めて少し行くと美しい石畳道が2㎞ほど続く。

 

        写真ACより   「うな~」さんの作品

 

この石畳道は熊野古道のポスターによく使われている。峠下は急勾配の坂道だ。

 

13:15 馬越峠 女子学生に登りがキツイと言われたので、覚悟したが案外と楽に登れた。見晴らしは無い。

 

13:35 展望台 熊野灘の展望を期待したが、見えたのは尾鷲の町のみだった。

 

歩きやすい登山道を快適に下って尾鷲市街に入る。

 

時間が早かったので、港へ寄ってから尾鷲の町をぶらぶら歩きながら、駅前のビジネスホテルへ向かった。

 

14:50 ホテル着 ホテルの外観はイマイチだったが、室内の設備は気に入った。機能的な広い机と照明が配され、ベッドメーキングもキチキチに上掛けを固定していなくて満足する。

 

マスターがお茶のペットボトルをサービスしてくれた。純朴そうな感じで好感が持てた。

 

17:00 割烹料理屋N 明日帰路に就くこととしたので、今夜がこの旅の最後の夜だ。最後の夜を美味しい料理でも食べて締めくくろうと、ホテル近くのこの店を訪れた。

 

早い時間なので店の人も相手してくれるかと期待したが、店へ入ると大将と弟子の板前が一心不乱に魚を捌(さば)いている。今晩この店で忘年会が開かれるようで、今はその仕込みの真っ最中なのだ。

 

そこへ見知らぬ男がふらりと入ってきたものだから、「この忙しいところへ、何だこの男は?」と言う顔をされる。宇和島の居酒屋へ入った時のような雰囲気で居心地の悪さを感じる。

 

気を取り直して、お酒別で5000円のお任せ料理を注文。大将も商売だから忘年会料理の仕込みの合間に、サザエのつぼ焼き、刺身の盛り合わせ、おこぜの煮付け、牛鍋、天ぷら等を作ってくれた。

 

お酒も入って、黙って飲んでいてもつまらないので、弟子の板前に話しかけると、笑顔で返答してくれたが、大将に笑顔はない。大将に130回へんろで四国を回った人の話をすると、「1回で十分ではないか」と言う。バカじゃないかとでもいう物言いだ。

 

私はそれを聞いて大笑いし、「そうだよな、興味や関心のない者にとっては、そんな話面白くもなんともないよな」と納得した。

 

お酒とお茶漬けを足して9000円を払って店を後にする。

 

よくテレビの旅番組で、地方の酒場でその土地の話を聞いたり、勧められる地酒を飲みながら和気あいあいと談笑している場面がある。私も地方の酒場へ入る時は、そのように初めての見知らぬ土地で、店の主人や地元の人たちと、都会では聞けないようなその土地ならでは話が聞けるかなと期待する。

 

しかし今回の旅で訪れた宇和島やこの尾鷲のお店は、いずれもそのような酒場ではなく、地元の常連以外の一見(いちげん)の客に対しては、どちらかというと排他的で居心地も悪かった。

 

ただ、世の中には素敵な酒場も数多くあるはずで、もっと沢山の酒場を訪れていれば、地元の話が聞けるようなお店にも巡り合っていたと思う。

 

20:00 コンビニ寄ってホテルへ戻り、マスター夫妻から近年のビジネスホテル経営の難しさ等の話を聞いて、就寝する。

 

12月12日の歩数 19,800歩    歩行距離 12.9㎞

 

 

 

12月13日(水)(晴)

<52日目 尾鷲→三野瀬→伊勢神宮→名古屋→自宅>

 

いよいよ旅の最終日、伊勢神宮へ寄って帰ろうと思う。

 

7:32 尾鷲 紀勢線上り普通列車に乗車、旅の終わりに静かな海岸の波打ち際に座って、波の満ち引きをゆっくり見ようと、スマホ地図で海岸に近い駅を捜す。それが三野瀬駅

 

8:20 三野瀬海岸 駅から歩いて20分ほどの海岸だが、少し先に無粋な防潮ブロックが並び、波はほとんど無く、当初の目的は果たせなかった。

 

 

9:00 三野瀬駅に戻って、9:34の多気普通列車を待つ。ホームで紀伊長島の歯医者さんに行くお婆ちゃんと立ち話をする。昔名古屋に住んでいたという小さなカワイイお婆ちゃんだった。

 

11:53 多気参宮線に乗り換えて、伊勢市駅着 この時はコロナ前で、伊勢参りの観光客はかなりいた。

 

12:00 外宮参道の土産物兼うどんや 土産物コーナーは消灯しており、店はやっていないかと思ったら、ボソッとお婆ちゃんが現れた。やまかけとろろ伊勢うどんを注文する。真っ黒な汁(つゆ)のグタグタに柔らかいうどんだ。見た目よりしょっぱくなかった。

 

店の入り口に「無料で荷物預かります」との看板があったので、「大きくて三つもあるがいいか?」と訊くと、OKとのこと。入店時声も無く、不愛想なお婆ちゃんだと思ったが、よく見ると、顔立ちも良くカワイイお婆ちゃんだった。

 

12:30~14:00 ザック、さんや袋、スゲ笠をお婆ちゃんに預けたので、荷物はスマホと財布を入れたナップザックのみの軽量となり、高速で外宮-内宮をお参りした。両宮間はバスを利用し、一時間強で回って来た。

 

 

 

最後の最後までセッカチな性格が現れた。 

 

14:20 伊勢市駅 ここから快速みえ号で名古屋に出て新幹線で帰る。

 

19:19 帰宅

 

12月13日の歩数 17,600歩    歩行距離 11.4㎞

 

 

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以上で2017年(平成29年)10月22日から12月13日まで旅した私の二回目の四国遍路旅とその後の追加旅が終わった。一番霊山寺からを一日目と数えて52日、自宅から霊山寺までの出発日を加えると、52泊53日の長旅だった。

 

「へんろ日記」は、昨年10月26日このブログに1回目を掲載し、以降非定期で連載したので、最終回までに1年以上を要してしまった。何とか最後まで書き終えて安堵している。

 

 

旅の総括

1⃣ 成果 今回も沢山の素晴らしい方々とお会いし、一期一会の貴重な体験をさせてもらった。53日間の非日常を満喫し、達成感も味わえた。

 

2⃣ 88カ寺 皆それぞれ個性豊かでで味わい深かったが、その中でも下記のお寺さんが心に残った。

2番 極楽寺: 小さいが清潔感があって気持ち良い

12番 焼山寺: 渋い 荘厳

17番 井戸寺: 薬師如来の姿が美しい

27番 神峯寺: 遠くに土佐の海 静かな山寺

29番 土佐国分寺質実剛健といった趣き

40番 観自在寺:どこか懐かしい地元に根付いたお寺

46番 浄瑠璃寺:境内が掃き清められ、納経の女性が、とても親切

52番 太山寺:堂々とした山寺

58番 仙遊寺今治や瀬戸内海が一望できる、宿坊は塵一つなく清潔 温泉ホテル並み

64番 前神時:渋くて雄大で奥深い

70番 本山寺五重塔、白馬像が静かな寺にマッチしている

84番 屋島寺:大きいが境内が清らかで気持ち良い

86番 志度寺:どっしりとした重厚なお寺

 

3⃣ ベスト3

① 美味しかったもの

室戸岬手前の民宿で出された天ぷら(客が座席に着いてから揚げる)

愛媛県北条の旅館の鯛めし、鯛のひれ酒

香川県高松市鬼無のぶっかけうどん/かき揚

 

② 絶景

・土佐 横浪スカイラインから見た土佐湾

高知県土佐清水市竜串海岸から見た朝日

・82番根来寺から鬼無へ下る県道から見た瀬戸内海

 

③苦しかった道

・12番焼山寺手前のへんろ転がしNo6

・88番大窪寺手前の女体山

九度山からの町石道(雨/雪の中登る)

 

④快適な道

・旧土佐電鉄廃線路のサイクリングロード

・66番雲辺寺から長時間下った後の緩やかな下りの県道

高松市国道11号線の歩道

 

⑤雨/雪

愛媛県内子~久万高原の山中の雨

松山市内のどしゃ降りの雨

・88番から1番へ向かう時の吹雪

 

⑥ へんろコースの伝統工芸

徳島県 藍住町藍染(2番、3番近辺)上板町の和三盆(6番近辺)

愛媛県 内子の和ろうそく、菊間の鬼瓦

香川県 鬼無の盆栽

 

⑦「おう!」と声が出るほど感動した所

・高架の「しまなみ海道」を地上からループ道を上り、本線と合流し眼下に瀬戸内海の島々が見えた時

・町石道を登って高野山に出て、目の前に巨大な大門が現れた時

中宮寺弥勒菩薩に合えた時

 

4⃣ 今回の旅を一言で言うと

「行って良かった!!」

ちなみに初回の旅は

「苦しいけど楽しい!!」

 

 

                 ー終わりー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

師走になって

今年も早いもので、もう師走になってしまった。グータラな性格で普段は家の整理整頓、清掃をいい加減にしており、歳末に一度にまとめてしようとして疲労困憊するのが常なので、私は師走が嫌いだ。

 

そう思うのなら、今からでも少しづつ掃除や片付けを始めればいいのだが、学生時代の試験勉強と同じで、ギリギリにならないとその気になれない。今年も12月の下旬頃までは、いつもの生活が続くのだろう。

 

1⃣ ウクライナ情勢

ウクライナでは、ロシアが、ウクライナ発電所等のインフラ施設を破壊する為のミサイル攻撃をしており、これによってウクライナ都市部の停電が常習化している。冬になって首都キーウの気温はマイナス20℃にもなるそうで、停電により暖房が滞り市民生活は多大なる犠牲を強(し)いられている。

 

ロシアのインフラ施設への攻撃は、人道的にも許されざる行為で、国際的にも非難されているが、そもそもウクライナへの侵攻自体がプーチン大統領の独善的思考に基づくものなので、大統領の耳には国際世論などはどこ吹く風なのだろう。

 

自由に暖房を取れる遠く離れた平和な日本では、キーウ市民の苦難をどの程度理解できるかは分からないが、彼らの塗炭の苦しみには常に思いを馳せていたい。

 

2⃣ 新型コロナ

国内では、新型コロナが第8波の波に入り、感染者が連日増え続けている。国内の新規感染者数は12月2日現在11万人弱、東京都1.1万人強となったが、これまでと比べ、国民の警戒心は相当緩くなったように感じる。

 

ニュースの扱いも初期と比べ随分小さくなった。国は8波が拡大している中で、外国人の入国制限や国民への行動制限はしていない。厚労省は11月末に、新型コロナを感染症法の「2類相当」からインフルエンザ並みの「5類相当」に見直す検討を本格的に始めると発表した。

 

このような状況なので、国内観光地は8波が拡大中ではあるものの、秋の行楽期もあって、かなりの人出で賑わっているようだ。

 

私の感覚でも先月初め名古屋へ行った時、名古屋駅の混雑ぶりにはびっくりした。私の周りでは火曜テニスの仲間が、全国旅行支援(県民割)を利用して、北九州の実家へ行ってきたとか、水曜テニスの仲間は同じく県民割を利用して北海道へ観光旅行してきたとの報告を聞いた。それぞれかなりお得な特約があったそうで、目的地の人出もかなり多かったということだ。

 

コロナ禍となって3年、私を含めた国民の大半は、自粛自粛の自粛生活には、いい加減うんざりし、息抜きしたくなるのは当然だと思う。

 

8波が拡大しても、国や行政主導の行動制限は不要で、各個人が自分で判断して、ワクチンを接種し、感染症対策を徹底すれば、このままの生活を続けてもいいのではないかと思う。

 

そのワクチンだが、先日5回目の接種案内(12月4日)ハガキが届いた。私のワクチン接種歴は、1、2回目がファイザー、3、4回目がモデルナである。1~3回目は接種後、特に異常はなかったが、4回目は、打った後2日間腕の痛みと、かなりきつい倦怠感に襲われた。

 

また4回目のような症状が出ると嫌だなと接種に気が進まなかったが、今回の5回目はファイザーのオミクロン株、BA4-5対応ということで、重症化を予防する為にも打っておこうと思う。

 

3⃣ 師走初めの日常

スーパーには、お正月用の鏡餅やしめ飾りが並び始めた。スーパーレジ係のHさんは、私の顔を覚えてくれたようで、私が買い物かごを台に乗せると、「レジ袋は、大3、中2ね」と言ってからレジを打ち始める。(ゴミ出し用にこの袋を毎回買っている。)

 

一週間分の買い物をして、帰宅後冷蔵庫等へ収納すると、ホッと一息つき何故か喉が渇く。いつもここで、オハギをお茶請けにしてお茶を飲んだり、ホットミルクや暖かい甘酒を飲む。師走の昼下がり、至福のひと時だ。

 

師走に入っても、来年のカレンダーと日記帳を買いに行ったり、年賀状の準備をするくらいで、週2回のテニスと卓球、金曜日のリハビリ通いの生活は変わらない。先週雨でテニスが中止となった翌週、久しぶりにテニス、卓球を連チャンで目いっぱいプレーし帰宅したら、どっと疲れを感じた。

 

夏の盛りに大量に汗をかいて、疲れることは何度もあったが、冬で汗もそんなにかかないのに疲れを感じるとは、やはり加齢による体力減退かと寂しい思いになる。

 

H卓球の練習後、いつものように同年のSさんと、近所のMACへコーヒーを飲みに行った。このMACは11月初めから店内改装で休店し、11月28日に新装開店したばかりだ。店は明るく綺麗になり、コロナ対策のアクリル板は撤去されていた。

 

Sさんは、早朝のラジオ体操を主催しており、毎朝6:10にラジオを持って広場へ行き、参集者と体操をして帰ってくるそうだ。今年で19年、来年は20年目に入るという。その継続力には敬服する。

 

 

4⃣ リハビリセンター

金曜のリハビリセンターで、右手足のリハビリに通っている利用者のYさんが、病気発症前は卓球をしていて試合にも出場し活躍していたと知った。私が参加している S卓球サークルにも、別のクラブチームから試合出場している卓球の上手いKさんという女性がいる。

 

Yさんに「Kさんって知ってる?」と訊くと、知っていると答えた。「Kさんは上手くって初めのころは全然勝てなかったが、病気前には少し勝てるようになった。」と言う。

 

S卓球サークル開催日に、Kさんに「Yさんをご存じですか?」と訊くと、その時は思い浮かばなかったようだ。後日Kさんから私に電話があり「多分若くて可愛い人で、最近急に上手くなった人だと思う。確認したいので次に会う時、許可がとれれば彼女の写真を撮って来て欲しい」と言われた。

 

翌週リハビリセンターで、Yさんが「今の姿を昔の知人に知られるのは嫌だ。」と思っているとしたら、「写真を撮らせて」と言うのは失礼な気がして、言い出せずに躊躇した。しばらくして断られるのを覚悟で話すと、あっさりOKしてくれた。バイクマシンに座っているYさんを撮らしてもらった。

 

その後Yさんは、私がストレッチトレーニングしているところへスマホを持って現れ、昔卓球をしていた頃に仲間と撮った集合写真を見せてくれた。なんとその写真のYさんは長髪で(現在のYさんは短髪)、短髪の姿しか知らない私には全く別人に見えた。(女性は髪型で印象が大きく変わるものだ。)

 

先程撮らせてもらった短髪のYさんの写真では、Kさんも分からないかもしれないと、集合写真を拡大して私のスマホに写した。

 

次のS卓球サークル練習日に、Kさんに、二枚の写真(長髪の昔のYさんと短髪の現在のYさん)を見せると、「そうよ、私が思ったのはこの方よ」と言って、もう3年以上も会っていないYさんを懐かしんだ。

 

Kさんは、「卓球が強くなってきた時だけに、病気になって残念ね。悔しい思いをしたんでしょうね。」と言い、Yさんへのお見舞いと「リハビリに励んで、又卓球ができるよう祈っています」とのメッセージを預かった。

 

世の中広いようで狭いものだ。私が仲介となって、YさんとKさんが繋がった。

 

 

5⃣ おまけ

今回も今の時期に相応しい動画「秋冬」を貼付します。

 

「秋冬」 作詞:中山丈二  作曲:堀江童子  歌唱:原 大輔

 

この曲は中山丈二の遺作である。1983年から1984年にかけて複数の歌手によって競作された。高田みずえ三ツ木清隆の歌唱も魅力的ではあるが、私は原大輔の歌唱が一番好きだ。彼の歌声を聞くたびに「何と良い声なのだろう!」「なんて歌が上手いんだろう!」と感嘆する。

 

 しゃれた日焼けに 涙が流れる

 ああ秋かしら

 やさしく説くように 別れを告げた

 あなたでした

 心の水面に さざ波が立って

 ああ秋ですね

 鏡を見つめて 小さな声で

 一人でつぶやく秋の詩(うた)

 季節の変わり目を

 あなたの心で知るなんて

 もう恋も もう恋も 終わるのね

 

 好きな曲ばかりラジオに流れる 

 ああ秋かしら

 私の我儘(わがまま)にいつも微笑んだ

 あなたでした

 遠い空から 枯葉が舞って

 ああ秋ですね

 あなたが返した合鍵が似合う

 無口な私になりました

 季節の変わり目を

 あなたの心で 知るなんて

 もう恋も もう恋も 終わるのね

 

 別れの北風が

 あなたと私に吹き込んで

 もう冬も もう冬も 近いのね

 


www.youtube.com

 

九州場所の朝之山

名古屋場所で三段目から復帰した朝之山が三段目優勝し、翌秋場所では幕下15枚目となり、ここでも優勝すれば、九州場所十両昇進が約束された。しかし6番相撲で勇麿に突き落とされて、復帰後初黒星を喫しこの場所は6勝1敗で終わる。(幕下以下の取組は7番)

 

朝之山はこの敗戦に非常にショックを受け、取組後には引退も頭をよぎったという。自分を応援してくれる人が沢山いることを思い出しその人たちの為にも、もう一度頑張ろうと思い直したそうだ。

 

後に朝之山は、「あの1敗があったからこそ、今後の相撲人生につながる。将来『あの1敗があったからこそ』と言えるようにしたい」と気持ちを切り替えた。

 

そして迎えた九州場所、朝之山は東幕下4枚目となり、ここで好成績で(できれば優勝して)十両に上がりたいところだ。

 

令和4年一年締めくくりの九州場所は、11月13日から始まった。幕内は横綱照ノ富士が初日から休場し、今場所も上位陣は、大関貴景勝を除いて、大関正代、大関から陥落した関脇御嶽海の成績は芳しくなく、正代はカド番で負け越し、来場所の大関陥落が決まってしまった。代わって関脇豊昇龍と平幕の高安、阿炎、王鵬、錦富士、輝が健闘し、この場所を盛り上げてくれた。

 

朝之山も早く十両、幕内と昇進し、幕内の優勝争いに加わって、活躍してもらいたいものだ。

 

今場所の朝之山の取り口を見てみよう。

 

          4番相撲徳勝龍戦  右が朝之山

 

 

1⃣ 初日 1番相撲

対戦相手:大成龍(幕下3枚目)  先場所の幕下優勝力士

勝敗、決まり手:○(勝)寄り切り

取り口:朝之山は、立ち合い直ぐに右を差し、左上手をとって自分の形になると、少し寄ってから上手投げを打ちながら寄り切る。

 

※この取組のNHK動画再生ランキングでは、幕内力士の取組を抜いて1位となった。

 

2⃣ 3日目 2番相撲

対戦相手:大翔丸(幕下5枚目)元平幕、平幕時代朝之山と対戦して5戦5勝している。

勝敗、決まり手:○(勝)、寄り切り

取り口:朝之山は、右を差して左の上手に手がかかると一気に寄り切る。過去の対戦成績は全く関係なく、朝之山の格の違いが感じられた。

 

 

3⃣ 5日目 3番相撲

対戦相手:白鷹山(幕下5枚目)元十両

勝敗、決まり手:○(勝)寄り切り

取り口:朝之山は、立ち合い鋭く踏み込んでもろ差し、胸を合わせるとすぐさま前へ出る。身長体重で自分より大きい相手に、しっかり圧力をかけて寄り切った。

 

 

4⃣ 6日目4番相撲

※朝之山は幕下であるが、成績が好調なので十両との対戦が組まれた。

対戦相手:徳勝龍(十両12枚目)近畿大学相撲部の先輩で、’20年初場所の幕内優勝経      験者、朝之山も’19年夏場所に幕内優勝しているので、幕内優勝経験者同士の対戦と話題   になる。

朝之山の幕内時代の対戦成績は、1勝1敗、初回は引き落としで負けている。

 

勝敗、決まり手:○(勝)押し出し

取り口:朝之山は、立ち合い鋭く踏み込んで攻め込み、土俵際での引き落としを警戒し、離れた時に相手を見て押し出して、徳勝龍に反撃を許さなかった。

 

髷(まげ)の大銀杏は十両以上でないと結えないが、朝之山は、この日復帰後始めて十両力士と対戦する為、十両の土俵に上がるので、昨年夏場所以来548日振りの大銀杏姿で登場した。朝之山も床山で大銀杏を結ってもらった時は感慨も一入(ひとしお)だったようだ。

 

対戦後朝之山は、「今日は大銀杏で黒まわしだったので、来場所は関取(十両)になって締め込みをして15日間戦いたい。」と記者にコメントしていた。

 

 

5⃣ 9日目5番相撲

対戦相手:湘南の海(幕下2枚目)

勝敗、決まり手:○(勝)、寄り切り

取り口:朝之山は当たって右をねじ込み、左上手も取って得意の右四つで寄っていく。土俵際で焦らずにこらえて寄り切った。

 

 

6⃣ 11日目6番相撲

※この一番も幕下の取組ながら、NHK動画再生ランキングでは幕内取組を抑えて1位になった。

 

対戦相手:玉正鳳 (幕下23枚目) 

勝敗、決まり手:● (負 け)、はたき込み 

取り口:玉正鳳がもろ手突きで朝之山の身体を起こした後、朝之山を引っ張り込みながらまわり込んで突き放す。朝之山はたまらず土俵外へ自分から飛び出した。

 

またも、先場所に続き鬼門の6番相撲で敗れた。5番相撲まで危なげなく快調に勝ち星を連ねてきたのも全く同じ展開だ。

 

朝之山の敗戦の弁「あごが上がって、引きについていったのが駄目だった。土俵際の詰めが甘かったです。負けたことは凄く悔しいけれど、もう一番ある。切り替えないと上にいけない。」

 

7⃣ 13日目 7番相撲

対戦相手:上戸(幕下10枚目)

勝敗、決まり手:○(勝)、寄り切り

取り口:朝之山は立ち合い右の肩で当たって右を差し、左上手を取るとそのまま前に出て寄り切った。

 

これで九州場所の朝之山は、幕下4枚目で6勝1敗の成績で終わった。今年最後の一番を取り終えて、朝之山は次のように言っている。

 

「今場所も優勝を目指してやってきたので、達成できなかったことが悔しいです。ここ一番で力を発揮できない自分が弱かった。来年はそれを克服して一番一番力を発揮できるようにしていきたい。」

 

朝之山が復帰してからの、3場所の成績は19勝2敗、元大関であるから、幕下以下の相手には、勝って当たり前と言われるかもしれないが、連勝を続けることは並大抵のことではないと思われる。

 

朝之山は、右差し左上手をとって、右四つで寄るという盤石な自分の型を持っており、勝った19勝はいずれもこの形で短時間に勝っている。見ていて危ない場面が全然ない。

 

今後朝之山が関取(十両以上)になった場合、貴景勝や大栄翔、玉鷲のような張り手の押し相撲の力士や、動き回る翔猿や小兵力士の対策をしっかりとれば、順調に勝ち星を連ね、優勝争いに加わって、十分優勝も狙える実力があると思う。

 

横綱白鳳の宮城野親方は、6日目の11月18日に朝之山の状態について、下記のコメントをネットに投稿している。

 

「自分から積極的に圧力をかけ、初心に戻って土俵に立っている印象をうけます。実力がある上に、心と体のバランスがあっていると相手は何もできないです。

 

元々、右四つという自分の型がありますし、完成に近いレベルです。今は精神面の強さを見つめ直している段階でしょう。更に心を鍛え、横綱を狙える精神力を持って、大関の地位に返り咲いて欲しいですね。」

 

来年初場所の番付は、優勝していれば十両昇進が確実であったが、1敗しているので十両下位力士や幕下上位力士の成績との兼ね合いもあって、正式には番付編成会議の結果を待たねばならない。

 

一ファンとしては、年が明けての最初の場所は、晴れて関取に返り咲いて、大銀杏を結い締め込みをして土俵に上がる姿を見てみたい。

 

幕下でありながら、NHKの動画再生ランキングでは何度も1位を取るということは、現状の幕内相撲には不満を持った「朝之山待望論」の相撲ファンが多く存在すると言う事であろう。

 

来場所以降の更なる活躍を祈る。

 

 

へんろ日記 番外編 2

10月23日にアップした「へんろ日記番外編1」の続きです。

 

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12月10日(日)(曇)2017年/平成29年

<49日目 大和郡山市→八木→藤原京跡→明日香村

→八木>

 

5:00 昨夜泊まった大和郡山のホテルは、風呂が天然温泉で浴室も気持ち良いものだったので、この旅で始めて朝風呂に入る。

 

6:30 朝食 昨日の天理のホテルの簡素な朝食に対して、今日はバイキング形式で充実したものだった。

 

7:33 近鉄橿原線筒井駅から大和八木駅まで乗車

 

8:00 八木駅近くのホテルKに今夜の宿をとる。ザック等の荷物をホテルに預ける。

 

8:30 明日香方面に向けて歩いて出発、 八木の町は、昔の街道の面影が残っており、その古い商家が連なる通りを通り抜けて、JR桜井線の踏切を渡る。北に耳成山(みみなしやま)、東に香具山、西に畝傍山(うねびやま)の大和三山を眺めながら、住宅地を更に南へ進むと藤原宮跡に着いた。

 

9:10 藤原宮跡 藤原京壬申の乱により即位した天武天皇の計画で作られた飛鳥時代都城平城京に遷都されるまでは、日本の首都だったところだ。今は何てことはないただの広場だ。

 

 

最近ここに300万本のコスモスが植えられ、今年の10月23日付け毎日新聞に写真が掲載されていた。

 

 

10:00 香具山の麓を通って飛鳥寺

飛鳥寺は、蘇我馬子が発願して588年に創建された日本最初の寺で、本尊の飛鳥大仏は609年推古天皇が鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像である。

 

 

テレビ等で良く紹介されるので、見慣れた顔だ。高さ3mであるが、現物を見るとそんなに大きく見えなかった。

 

 

11:30 昼食 観光客相手の旅館が営む食堂に入る。店内はストーブが焚かれ暖かくホッとする。客は私一人。にゅう麺、葛、柿の葉寿司他のセットを注文する。奈良らしい料理で美味しかった。

 

12:20 石舞台 横穴式石室を持った方形墳で、7世紀初めの築造と推定され、蘇我馬子の墓ではないかとも言われている。玄室は長さ7.7m、幅3.5m、高さ4.7mで大小30数個の花崗岩が使用され、天井の石の重さは北側64トン南側77トンの巨石である。

 

クレーン等の重機の無い時代、これらの巨石をどのように据え付けたか興味深い。

 

        写真ACより   cloudshipさんの作品

 

 

14:20 明日香村、橿原神宮近辺を古(いにしえ)の飛鳥時代に思いを馳せながら散策し、八木のホテルに戻った。

 

12月10日の歩数 33,200歩   歩行距離 21.6㎞

 

 

 

12月11日(月)(曇)2017年/平成29年

<50日目 大和八木→十津川→熊野本宮>

 

奈良、明日香の旅を終えて今日は、大和八木から「日本一長い路線バス」に乗って熊野本宮に向かう。この路線バスは大和八木駅和歌山県新宮駅を結ぶ奈良交通バスの八木新宮線だ。全長170㎞、バス停の数168(そのほとんどは通過だが)終点までの所要時間6時間半、路線バスだが、途中3回休憩がある。

 

今年の10月から、停車停留所が半分となり、所要時間が30分程短縮された特急バスが運行されるとニュースが報じていた。

 

7:40 ホテル出発

 

8:00 八木駅前 9:15のバスの切符販売は9時からだと言われ、外で待つのは寒いので、駅前ビルのロビーに入る。警備員のオジサンがいて立ち話をする。

 

この男性、明日香村に住む68才。私が旅を続けて今日が50日目だと言うと、自分は、たまの休みに大阪へ行って遊んでくるのが精いっぱいで、私のことを羨ましい羨ましいと言う。関西人らしく、ストレートに「お金はどのくらいかかるの?」と聞いてきた。

 

9:15 八木駅発 八木駅から乗った乗客は、3人組の観光目的らしいオバサン、大阪のオジサン(一人旅かと思ったら、五条で仲間が5人乗ってきた。)それに一人旅の女性と私の計6人だった。五条までは、街を走る普通の路線バスだ。

 

五条からバスは奈良の山奥に入っていく。目的地までは5時間以上の長旅で、客も少なく人恋しくなったのか、前の席の一人旅の女性が「へんろしているんですか?」と私に声をかけてきた。

 

それから、移り行く窓外の絶景を見ることも忘れて、彼女と話し込んだ。

 

彼女は小田原生まれで、大井町、相模原、名古屋、と引っ越し今の住所は千葉の市川。相模原在住の高校時代は県内の名門A校に通い、剣道部で活躍し、今でもその時の仲間と合っているという。

 

名古屋時代は、私の実家の直ぐ近くに住んでいたようで、不思議な縁を感じた。

 

今はキャリアウーマンのようで、「ビルの窓から見る朝日が素晴らしい」と言っていたので、仕事で徹夜になることもある様子だ。仕事をガンガンして、一段落したら一人旅をするのが、彼女の流儀らしい。今回は那智が最終目的地と言っていた。

 

12:25 上野地 二回目の休憩地点、20分の休憩、売店でめはりずし(高菜の浅漬けの葉でくるんだおにぎり)を買う。これは熊野や吉野地方の郷土料理だそうで、初回へんろの時初めて目にして買って車内で食べたら、素朴な味で凄く旨くて感激した。

 

バス停から3分程に「谷瀬の吊り橋」があるので、一人旅の女性と見物に行く。この吊橋は、長さ297m、高さ54mの生活用としては、日本最長だったそうだ。風が強くて寒く早々とバスに戻る。

 

 

13:55 十津川温泉 始発から乗車したオバサンの3人組、大阪の男性グループ、一人旅の女性はここで下車した。一人旅の女性とは将に「一期一会」の出会いで名前も告げずに別れた。

 

14:50 熊野本宮 下車数分前に車内で切符がないことに気付く。どこを探しても見つからない。思うに、吊り橋へ行った時、羽織った上着のポケットから強い風で吹き飛ばされたのではないか。

 

下車時、ここまでの運賃3950円の再支払いを覚悟して、運転手さんに話すと、彼は八木駅バスセンターに電話したが繋がらない。「お客さんを信用して」とそのまま降ろしてくれた。へんろ姿が信用させたか、何と親切な運転手さんか、何と幸運なことかと感謝する。

 

15:00 熊野本宮大社に、へんろが無事終了したことの報告と、これからの旅の安全を願ってお参りに行く。

 

       写真ACより    よしかっぱ さんの作品

 

熊野本宮大社は、全国3000社ある熊野神社総本宮で、熊野速玉大社、熊野那智大社と合わせて熊野三山を形成している。この時参拝客は数人しかいなかった。

 

15:10 参拝後、スナックYに行く。ここは、最初のへんろの帰りにも寄った所で、ここの女性オーナーはスナックから少し離れたところに一軒家の宿を経営しており、食事はスナックで、宿泊は一軒家でというシステムになっている。

 

三十代位の若いママさんは、初回の時も私のへんろ旅に非常に興味を持ってくれ、色々と質問されたので、へんろ旅の様々を話した。二度目の今回も、旅の話を聞きたいとのことで、スナックでの夕食を挟んで長時間に渡ってへんろ地図とスマホの写真で彼女に説明する。

 

彼女は翌日彼女の旦那さん運転の車で、朝4時出発して京都のあるお寺さんに行く用事があるらしい。そんな時に遅くまで私の話を聞いてくれ、私は大変な迷惑をかけたものだと恐縮した。

 

22:00 彼女は、宿泊する一軒家まで送ってくれ、翌日の朝食とお昼の弁当を私に渡して別れた。

 

 

12月11日の歩数 7,340歩    歩行距離 4.8㎞

 

 

              ー続く(非定期)ー

 

   

 

 

 

11月上旬

ウクライナでは、ロシアが一方的に併合を宣言した東部ドネツク州の要衝リマンから撤退した、ロシア軍がウクライナの反転攻勢に耐えきれなくなったのだ。ロシア軍は撤退の際、ダム等のインフラを破壊しているようだ。

 

現地のロシア兵は、撤退を知らされず置き去りにされたり、大量の戦死者が出て悲惨な状況になっている。戦争とは非情で酷い(むごい)ものだ。

 

戦争を仕掛けたロシアも莫大な犠牲を払っている。100年前に日露戦争に負けたロシアが、その後のロシア革命で体制が変わったように、今回の撤退が、ロシア国民の反戦厭戦意識を高揚させ、国内から現体制を変換させる力になればと願っている。そして停戦の話し合いの糸口を何としても早く見つけて欲しい。

 

 

国内では、新型コロナの第7波は収束の様子だったが、最近新規感染者が全国的に拡大し始め、第8波に向かって増えている。北海道の感染者は第7波のピークを越えたということだ。北海道は寒くなって、換気が悪くなっているのも原因だろうと朝のニュースが報じていた。

 

北海道以外も、これから寒くなりインフルエンザの流行も重なり、第7波以上の感染者が出るとも予想され、またも医療危機の再来が懸念される。

 

しかし国民のコロナに対する危機意識は、以前と比べかなり低くなっているようだ。水際対策が緩和され、行動制限も無くなって、国内観光地や都会の歓楽街にはコロナ前に近い人出が報じられている。

 

11月9日、国は当面行動制限の措置は取らないと発表した。果たしてワクチン接種や各自の感染対策で、どの程度コロナを抑え込むことができるか注目される。

 

 

今回もネタ切れ状態なので、11月上旬の私の生活を綴ってみます。

 

1⃣ 名古屋行(11月5日)

名古屋近郊の叔母宅へ弔問に行った。(叔母や弔問のことは前回のブログに書いた。)

 

名古屋へ行くのも新幹線に乗るのも、7年振りだ。コロナ以降、鉄道を利用するのも久しぶりである。

 

新横浜までの横浜線に乗って、改めてその乗り心地の良さに驚く。音は静かで振動も少なく実に快適である。私が通勤で毎日この線を使っていた頃の車両と比べると、格段の進歩だ。この線は、山手線と同系列の車両を使用しているので、JR東の通勤電車の中では最先端車両なのだろう。

 

車内は混んでいて、ザックの人は皆ザックを胸の前にかけて、周りに配慮していた。私の通勤時には、ザックの人は殆どいなかったので、時代は変わったなと思う。

 

新横浜の乗り換えでは、改札口先の新幹線待合室や土産物売り場が改装されていた。土産を買おうとして、頭に描いていた売り場が無くて、少々まごつく。

 

名古屋までは本数も多いので特急券は自由席にした。スマホの乗り換えアプリで調べた8:39発に乗るつもりでホームに行く。博多行が停車している。自由席の先頭方向に歩いて行くと、博多行が発車した。すぐその後に新大阪行が入線して停車した。と同時に反対ホームに別の新大阪行が入線してきた。

 

ホームの両側に2本の新大阪行が、乗降ドアが開けて並んでいる。2本とも自由席1号車は空席が多かったので先の列車に乗った。直後に発車する。前の博多行、後の新大阪行との時間間隔は2分である。

 

この日は土曜日で臨時ダイヤが組まれていたのだろうか?それにしてもラッシュ時の山手線並み過密ダイヤだ。16両連結約1000人の乗客を乗せて、新幹線を2分間隔で運行するJR東海さん、恐れ入りました。

 

久し振りの新幹線なので、車内からの富士山の眺望を期待したが、この日の朝は曇りで富士の雄姿は見られなかった。富士川の鉄橋を渡る時、一瞬山頂の一部がちらりと見えた、

 

10時前に名古屋到着。新幹線ホームも駅の構内も、行楽客と思われる客で、コロナ前のように混雑していた。こういう人混みの中に身を置くのも久しぶりだ。地下鉄に乗る為に、一旦駅ビルを出ると、駅前の風景が7年前と激変していた。駅前再開発で新しい高層ビルが林立していたのだ。

 

地下鉄東山線名古屋駅は、65年前、名古屋に地下鉄が始めて開業した時に作られた駅で、設計時は、乗降客数を現在の利用客数よりかなり小さく見積もっていたのであろう。今、ホームはいつも人で溢れていて危険な感じさえする。難しいだろうが拡張が必要ではなかろうか。

 

地下鉄は栄まで、隣の人と接触するくらいの混雑状況だった。コロナ以降こんなに混んだ電車に乗ったのは始めてだ。

 

妹宅で鰻丼をご馳走になり、義弟の運転する車に乗せてもらって、T市の叔母宅へ弔問に行く。帰りは、その車で名古屋駅まで送ってもらった。帰りの新幹線も、私が乗った時は2分間隔の運転だった。

 

日帰りだが充実した旅だった。

 

2⃣ 火曜テニス(11月8日)

テニスの仲間が、山形県鶴岡市の実家から送られてきたという、沢山の庄内柿を持ってきた。サークル員におすそ分けしようというのだ。この柿は渋柿であるが、焼酎を注入して寝かせて甘くしたのだという。私も2個頂き自宅で食べたが、果実は程よく固く、噛むと濃厚な柿の甘さが口に広がり、それはそれは美味しい柿であった。仲間に感謝。

 

3⃣ 火曜卓球(11月8日)

上記テニス終了後、公民館の卓球へ向かう。この日参加者は6人と少なかったが、皆、技術レベルが高い人ばかりだったので、ラリー、練習試合ともに充実した練習ができた。

 

4⃣ 水曜早朝テニス(11月9日)

このテニスも、この日の参加者は5人と少なく、練習試合も休み無しの4回連続となる。ハードではあったが、天気が良く青空の下、気持ち良くプレーできた。気温も12~15℃と半袖でテニスするには暑くも寒くも無く、汗もかかずに快適にテニスできた。

 

5⃣ リハビリセンター(11月11日)

この日もストレッチ/バランストレーニングでは、つま先立ちで片方の足を横に上げるレッスンをした。腰の高さの円柱ポールを両手で支えながらではあるが、フラフラしてビシッと安定しない。私には難しい。翌日左の踵が少し痛かった。

 

スタッフの中に、トレーニング後の帰宅準備の時に、よく会話する女性がいる。前からこの彼女誰かに似ているな~と思っていて、今日それが「不二家のぺこちゃん」だと気付いた。

 

小柄で目の大きな可愛い女性なのだ。そのことを彼女に言うと、複雑な表情をした。私は「ペコちゃん似」を誉め言葉として言ったのであるが、彼女は、今活躍の女優かタレントの名前を期待していたようで、舌を横に出した「ぺこちゃん」は、気に入らないようだった。

 

「ペコちゃんにマスクをすればあなたの顔になるよ」と私、彼女は「私は小さいころお婆ちゃんに『堀ちえみ』の若いころにそっくりと言われた。」と主張した。

 

 

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今回もおまけとして、この時期に相応しい私の好きな「終止符」を貼付します。

 

 終止符 

 作詞:谷村新司  作曲:堀内孝雄  歌唱:アリス

 リリース:1979年12月20日 (17枚目のシングル)

 

 左ききのあなたの手紙

 右手でなぞって真似てみる

 いくら書いても埋めつくせない

 白紙の行が そこにある

 

 友情なんて呼べるほど

 綺麗事で済むような

 男と女じゃないことなど

 うすうす感じていたけれど

 

 あの夏の日がなかったら

 楽しい日々が続いたのに

 今年の秋はいつもの秋より

 長くなりそうな そんな気がして

 

 夢を両手に都会(まち)に出て

 何も掴めず帰るけど

 やさしさの扉を開ける鍵は

 眠れない夜が そっと教えた

 

 心も体も開きあい

 それから始まるものがある

 それを愛とは言わないけれど

 それを愛とは言えないけれど

 

 あの夏の日がなかったら

 楽しい日々が続いたのに

 今年の秋はいつもの秋より

 長くなりそうな そんな気がして

 

 春の嵐が来る前に

 暖かい風が吹く前に

 

 重いコートは脱ぎすてなければ

 歩けないような そんな気がして

 

 


www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の叔母さん

母方の叔母の訃報が届いた。享年95才だった。時々私から電話を入れて様子伺いすると、散歩したりデイケアで体操したり、お喋りしたりと元気に生活していると言うので、安心していた。

 

晩年耳の聞こえが少し悪くなったが、元々身体は丈夫な方で、内臓の疾患が無く特に痛いところも無くて、お医者さんに褒められたと笑って自慢していた。ただ近年お友達が相次いで亡くなり、話し相手がいなくなって寂しいと漏らしていた。

 

もう数年もご無沙汰していたので、元気なうちに叔母に会いに行こうと考えていたが、コロナが流行り始めて、訪問は先送りになっていた。この秋辺り尋ねてみようかと思っていたが、先に訃報が来てしまった。悔やまれる。

 

 

叔母は私の母と3才違いの妹である。母は生前「姉ちゃん(叔母のこと)は、ワタシと違って、頭が良くって学校の成績も良かったんだよ。運動も得意で、運動会の徒競走ではいつも一番だった。」とよく言っていた。心配性で、細かいことを考えすぎる私の母と違って、叔母は、楽天的、合理的で明るい性格だった。

 

叔母は独身時代から、我が家へよく遊びに来ていたので、私たちは叔母のことを「姉ちゃん」と呼んでいた。結婚してからもずっと呼び名は「姉ちゃん」だった。私は子供のころ叔母に大変可愛がってもらった。

 

母が私の妹を出産するために入院していた時、叔母は我が家へ住み込みで手伝いに来てくれていた。この時叔母は私と一緒に買い物に行って、私の好きな菓子や果物を買ってくれた。この時買ったバナナや桃の缶詰を、母の病室で皆で食べた。バナナは当時まだ貴重な果物で、桃の缶詰は子供心にその美味しさに感動し、今でもその時の味が忘れられない。

 

妹が生まれた後、叔母と病院へ行った時、私は母に「赤ちゃんは何という名前なの?」と訊いた。すると叔母は笑いながら、「〇〇しんせいじ」(○○は私の姓)と言う。私は「女の子なのに『しんせいじ』なんて変な名前は可哀そうだし嫌だ」と不平を言った。

 

叔母は面白がって、「もう決まったんだよ」と言う。私は本当に妹の名前が『しんせいじ』に決まってしまったと思い、「そんなの嫌だ嫌だ!」と大声で抗議した。

 

叔母はこの件が殊の外面白かったらしく、私が大きくなってからも何度も「あの時は可笑しかった」と思いだしては笑っていた。最後に合った時もこの話が出た。

 

叔母は結婚して、夫の勤めるT自動車近くのT市内で暮らすようになる。子供が小さい時は忙しかったようだが、子育てが一段落すると、姉である私の母と世間話をするために、我が家をよく訪問した。

 

叔母の家から名古屋市東部の我が家までは、2時間とかからなかったので、来やすかったのだろう。私が学校から帰ると、よく叔母と母が話をしていた。母の兄弟は、もう一人名古屋市内に住む弟(私の叔父)がいて、叔母も叔父も長女である私の母を慕って、よく我が家へ遊びに来ていた。大人になっても仲の良い3人兄弟だった。

 

叔母は時々、我が家に泊まった。私が高校生だったころ、当時私が読んでいた夏目漱石の「三四郎」の話をすると、叔母も読んでいたようで、漱石の作品で話が弾んだ。

 

叔母の夫(義理の叔父さん)は、趣味を大切にする人で、立派なステレオ装置で音楽鑑賞をしていた。それを新しいものに買い替えるので、今まで使用していたステレオユニットを私が譲り受けた。当時まだユニットタイプは珍しい時代で、私は高校生の身で臨場感あふれる音楽を自宅で楽しむことができた。

 

義理の叔父さんは、こけしの蒐集にも凝っていて、定年退職後は、自分の勤め上げた会社の高級スポーツタイプの乗用車を駆使して、日本中のこけしの産地を巡った。

 

叔母も何度か同行したが、叔父さんは現地へ入ると、こけしの品定めと買い付けに夢中となり、長時間こけしの店から出てこないので、こけしにはあまり興味の無かった叔母は、ゆっくり喫茶店でも入ってお茶でも飲みたかったと、帰ってから私の母に不平を言っていた。

 

叔父さんは、自宅の一室にこけしの陳列ケースを並べて「こけしの部屋」とし、そこに買い集めたこけしを収納し、眺めては楽しんでいたそうだ。

 

 

それからしばらくして、義理の叔父さんは、68才の若さでお亡くなりなり、叔母は未亡人になった。叔母は次男家族と暮らしていたが、実の姉である私の母と話をしたいらしく、叔母の名古屋通いが再開した。

 

母も当時夫(私の父)を亡くし、私や妹も家を出て一人暮らしだったので、時々訪ねて来る気心の知れた叔母と姉妹仲良く話ができることを楽しみにしていたようだ。その母が19年前に亡くなってからは、叔母に関する情報も母から聞けなくなった。

 

7年前に叔父が亡くなり、仲良し3兄弟は叔母一人になってしまった。叔父の葬儀の後、叔母はさぞかし寂しい思いをしているだろうと、慰め方々私と妹夫妻の3人でT市の叔母宅を訪問した。

 

気丈な叔母は、弱音は一切吐かず、にこやかに笑って対応してくれた。この時も妹が生まれた時の「しんせいじ」の話をして面白がっていた。

 

その後私も気になって、時々電話を入れたり、叔母からも電話で近況を知らせてくれたりしたが、最近は疎遠になっていた。

 

叔母は若い時から賢く資産運用をしていたので、経済的には何一つ不自由のない生活をしていた。

 

私の母もそうだったが、叔母も夫に先立たれてからは、自分の好きなことを好きなようにして暮らしていたようだ。幸せな生涯だったと思う。

 

 

叔母の死後、葬儀は叔母の二人の息子家族のみで、極く少人数の家族葬を行ったということだ。葬儀後に叔母の訃報が届いたので、叔母の甥と姪に当たる私と妹は、秋の一日叔母宅へ弔問に行った。

 

始め、車で行くことを考えたが、東名高速は一部工事中で込みそうなので、電車にする。叔母宅のT市は名古屋からのアクセスは良いが、東京方面からだと乗り換えが多く煩雑だ。

 

結局名古屋の妹宅へ直接行って、義弟の運転する車に同乗させてもらい3人で叔母宅へ向かうことになった。

 

叔母宅を弔問し線香をあげた後、叔母と一緒に暮らしていた次男(私の従兄弟)が、叔母が亡くなった時の様子を話してくれた。

 

その日の朝叔母は何事も無く、次男夫婦ともいつもの会話を交わし、次男夫婦が仕事に行って、家は叔母一人になったということだ。叔母は買い物にでも行こうと思ったのか玄関を出たところで倒れたそうだ。倒れた叔母を近所の人が直ぐに見つけてくれて、救急車で病院に運ばれたが死亡していたと言うことだ。

 

私はこの話を聞いて、「叔母さんは『ピンピンコロリ』で亡くなったのだ」と思った。

 

「ピンピンコロリ」の定義とは、病気に 苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝込まずにコロリと死ぬことであるが、叔母の死は、まさにこれに該当するものだと思う。

 

現代人は誰しも「ピンピンコロリ」を願っているが、なかなかそれが叶わないのも現実である。叔母は生前息子たちに「寝込んで周りを煩わせるのは嫌だ。死ぬ時はコロリと死にたい」と言っていたそうだが、その通りになった。

 

叔母は幸せな生涯を過ごし、自分の希望通りの最後で幕を閉じた。運も良かったであろうが、普段の心掛けも良かったからなのだろう。

 

ご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

只見線

今週の月曜、火曜日、当地の天気は雨や曇りで、最高気温は13℃前後と師走の頃の冬の気温となった。夏から秋を通り過ぎて一気に冬になったという感覚だ。

 

翌水曜日は、朝から雲一つない快晴で、気温も前日より5℃ほど高く、早朝テニスも青空の下、汗もかかずに快適にプレーを楽しむことができた。その後も晴れた日が続き。やっと秋らしくなってきた。

 

こうも天気が良いと、どこか遠くへ行ってみたくなる。今頃は少し高い山や、北の方は紅葉の見ごろになったかな?と想像する。

 

秋のシーズンになると、旅の雑誌や、テレビの旅番組等で、JR只見線沿線奥会津の風景が紹介されることが多い。

 

 

 

 

私もこれらの写真に誘われて、2回奥会津を訪れた。

 

 

1⃣ 2016年秋

鉄道の各駅停車のみに乗って、常磐線磐越東線磐越西線只見線上越線八高線を使って一回りした。宿泊は、会津若松水上温泉

 

旅の二日目、会津若松発の只見線一番列車(6:00発2両連結のディーゼルカー)に乗車する。乗客は一車両に数人、会津檜原(あいずひのはら)を過ぎるころから、列車は只見川を何度も渡り、川を縫うようにして進む。

 

手前の黄色いイチョウの先の山の上部は、雪をかぶり薄化粧していた。女子高校生が少し長いシートに寝っ転がってスマホをいじっている。

 

私のスマホには、アメリカの大統領選挙でトランプ氏がヒラリー女史を破って当選したとの速報が入った。

 

下りは全て会津川口止まり、この先の只見までは土砂崩れで不通となっている。会津川口駅はこの辺りでは、珍しく駅員さんが常駐し売店も有る数少ない駅だ。ここから只見までは、代行バスが走っている。

 

バスはマイクロバスで乗客は3人、運転手はテキパキとした中年の女性だった。空はどんより鉛色、いまにも雪が降ってきそうな天気だ。バスの窓には薄いカラーフィルムが貼ってあるので、遠景の紅葉が違った色に見える。

 

バスの女性運転手さんと雑談をする。規則では乗客との会話は禁止のはずだが、運転手さんは気さくにに話ししてくれた。只見線赤字ローカル線なので、復旧工事の目途は全然立っていないとのことだった。

 

バスは不通の駅の他に、役場とか集落の要所にも停車したが、乗降客は途中の集落で一人降りただけだった。約1時間、バスは過疎の集落を巡って只見駅に到着。

 

只見駅から小出行のディーゼルに乗り換える。直ぐにトンネルに入り、少し長い田子倉トンネルを抜けたところが田子倉駅で、ダムに堰き止められた大きな田子倉湖が左窓下に広がる。

 

この駅を過ぎると、列車は長い六十里越トンネルに突入し、その先は新潟県だ。列車から見える紅葉は、このトンネルを過ぎた辺りが赤や黄色が鮮やかで一番きれいだった。

 

 

 

2⃣ 2018年秋

列車の旅から2年後の丁度今頃、車で奥会津を訪れた。鬼怒川から南会津、下郷を通って会津若松で一泊、翌日にJR只見線に沿った国道252号を西進して只見町、田子倉湖から新潟県魚沼に抜けるルートだ。

 

会津若松のホテルを7時出発、演歌歌手春日八郎の出身地会津坂下(あいずばんげ)の町を通り、只見線会津柳津(あいずやないず)駅に立ち寄る。もう30年近く前に、この駅を舞台にした「秋の駅」というテレビドラマがフジテレビで放送された。

 

今は亡き元キャンディーズ田中好子さんが、シングルマザーで駅前売店の売り子を演じ、駅員や地元の若者との織り成す秋の日常を、田舎の小さな駅を中心に描いた秀作だった。第19回ドラマ番組優秀賞を受賞している。

 

国道252号線沿い会津川口駅近くの「金山道の駅」にトイレ休憩で立ち寄る。建屋はあるものの、商品は何もない。まだ開業していないのか尋ねる人も居らず分からなかった。トイレは使用できた。

 

只見線は、会津川口と只見間がこの時もまだ不通だった。2年前に代行バスで通った道を走る。不通区間会津蒲生駅へ様子を見に行く。駅から伸びる線路は雑草が生い茂り、廃線跡のような景観だった。復旧はできるのだろうか、このまま廃線になってしまうのではないかと思った。

 

周りの小高い山は、少し色付いてはいるが、まだ紅葉には少し早いようだ。

 

 

2年前の鉄道旅の時もそうだったが、この日も曇天で雪でも降ってきそうな空模様だった。

                  田子倉

 

鉄道の六十里越トンネルは、7㎞近い長いものだが、国道のトンネルは数分で通過して新潟県魚沼市に入る。峠を越えた所でどしゃ降りの豪雨に見舞われた。ワイパーをハイにしても前方が見えず、危険を感じ、車を路肩に止めて雨をやり過ごす。10分程停車して出発する。

 

 

3⃣ 新日本風土記

10月14日NHK-BSP放送の「新日本風土記・絶景鉄道只見線」を見た。6年前と4年前に訪れた只見線が、当時復旧は無理と思っていたが、この10月1日に全線開通して運転が再開された。只見線に纏わる住民の生活をドキュメントしたものだ。

 

放送によると、只見線の歴史は、1926年(大正15年)会津若松会津坂下間が会津線として開業、その後徐々に西に延伸して1956年(昭和31年)会津河口まで延伸開業した。

 

1957年(昭和32年会津川口-只見間は、田子倉ダム建設の為の工事資材運搬用の貨物専用線となり、ダム建設後の1963年(昭和38年)に延伸開業。

 

一方上越線小出側からは、1942年(昭和17年)小出-大白川間が只見線として開業し、1971年(昭和46年)に会津若松-小出間が只見線として全線開通した。

 

2011年(平成23年)7月の新潟・福島豪雨により、只見川第5、第7橋梁が流失、路盤の流出ヶ所も多数でて、会津坂下-小出間が不通となった。

 

その後少しづつ復旧したが、会津川口-只見間は不通のまま11年が経過したのである。

 

番組では、沿線住民の只見線にかける熱い思いや、自分たちの鉄道への愛情を余すところなく伝えている。

 

再開初日の1日には、地元住民が列車の到着に合わせてお祝いの行事をしようと待っていたが、一番列車に車両の不具合が発生して列車が大幅に遅れるというハプニングが発生した。それでも住民は愛情深く只見線を見守っていた。

 

又番組では、代行バスの最後の運転となる9月30日のバス運転の様子を密着撮影している。各バス停には地元住民が待ちうけ、運転手への労いと感謝の花束を渡し車内が花束でいっぱいになるという微笑ましい映像も流された。

 

この女性の運転手 さんは、私が6年前に乗った時の運転さんだと思う。只見地区にお住まいで、地元では集落の区長としても活躍されているそうだ。

 

彼女は地域住民には「鬼の区長」と呼ばれ、強いリーダーシップを発揮して、地域の取りまとめや田圃にひく水路の掃除などの共同作業を仕切ったり、最近は荒れた集落の森の整備にも取り組んでいる。「バスの運転手を辞めても、やることはいくらでもあって忙しい。」と話す頼もしいアラフィフの女性だった。

 

番組は、只見線がこの地域の住民にとって、いかに生活に根付き愛されているかを伝えていた。

 

放送された映像

 

             橋梁を渡る只見線列車

                 只見川の川霧