我が家から車で1時間弱の所に、水郷がある。20年位前のこの時期、この地を初めて訪れた。当時から周りは住宅地になっていたのだが、その中を幅1m位の水路が幾本も流れていて、水路には鯉や川魚が泳ぎ、水路内及び水路際には花菖蒲が咲き誇り、こんな近場にこんなにも風情豊かな地があったとはと、驚いたものだ。
もう何年も訪れていなかったが、急に又行ってみたくなった。6月1日の午後、車で出かけた。
見覚えのある水路はすぐ見つかったが、何か様子が以前と違う。まず、水路の水は滔滔(とうとう)と流れているのだが、鯉や川魚がいない。それと、花菖蒲がほとんど咲いていない。
地元の人に訊いてみると、魚は放流しなくなり、花菖蒲は手入れする人が少なくなって、昔と比べ数もずっと少なくなったということだ。
かつては、水中にこのような花菖蒲が沢山咲いており、鯉などの川魚もいっぱい泳いでいた。
現在の水路と木製遊歩道
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「あやめ」と「菖蒲」、「かきつばた」皆よく似ていて、 つい最近まで、私は、その違いをよく知らなかった。漢字で書くと「あやめ」と「しょうぶ」は「菖蒲」と同じであるから、ますますややこしい。「かきつばた」も漢字では「杜若」「燕子花」と難しい。
見分け方を調べてみると、下記ということだ。
あやめ:花弁の付け根が白と黄色、網目模様、陸地に生える、時期5月中旬~下旬
菖蒲 :花弁の付け根が白と黄色、模様無し、湿地に生える、時期6月~7月
杜若 :花弁の付け根が白、模様無し、水中を好む、時期5月中旬
水郷の花は花弁の付け根が黄色いことから、菖蒲だ。
端午の節句で入る菖蒲湯の菖蒲はサトイモ科で、アヤメ科の花菖蒲とは全くの別物とのこと。
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杜若(かきつばた)の、実物を見ることは少ないが、一般には、根津美術館所蔵の、尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」の方が馴染みがあるのではなかろうか。
この屏風は、平安時代のプレイボーイ在原業平(ありわらなりひら)をモデルにしたとされる「伊勢物語」の東下りの段を題材としている。
主人公が東下りの際、三河の国 八橋(やつはし)というところに着いて、その沢のほとりの木の陰で、乾飯(かれいい・当時の行動食)を食べた。<以下三行は原文>
その沢に、かきつばた、いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいわく。「かきつばたという五文字を句の上にすえて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。
から衣(ころも)きつつなれにしつましあれば、はるばるきぬる旅(たび)をしぞ思ふ
都に残した妻のことを思い、はるばるこんなに遠いところまで来てしまった旅を悲しく思うと句にすると、それを聞いた旅人たちは、涙をボロボロ流しその涙で乾飯がふやけてしまったそうだ。何とも大げさな、現代人にはあまり理解できない平安時代の感覚なのであろう。
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今回のタイトル「いずれ、あやめか、かきつばた」はアヤメもカキツバタも似ていて区別がつきにくいところから、どちらも美しく優れていて優劣がつけにくいことの意であるが、この言葉は、太平記・二一のエピソードに由来するということだ。
そのエピソードとは、
「平安時代の武士・源頼政が怪鳥ぬえを退治した褒美として、上皇から「菖蒲前(あやめのまえ)」という美女を賜ることになったが、上皇は12人の後宮の美女を集め、その中から「菖蒲前」を選び出せと言う。頼政は、和歌を認(したた)め、和歌に託して「そんなの分かるわけがありません」と上皇に奏上した。
<頼政の奏上した和歌>
五月雨に沢辺の真薦(まこも)水超えて いずれあやめと引きぞわずらふ
五月雨が降り続いて沢辺の水かさが増したため、真薦も水中に隠れてどれがアヤメか分からず引き抜くのに悩んでしまう
とこれが語源ということだ。
いずれにしても、菖蒲(あやめ)、花菖蒲、杜若(かきつばた)は、日本人には梅、桜とともに、古来から愛され、古典にもよく登場する花だ。