柚木裕子「慈雨」

NHKラジオ深夜便を聴いていたら、作家の柚木裕子さんのインタビューが放送された。私はそれまで、柚木裕子さんに付いてはその著作は一度も読んだことが無かったし、直木賞か何かの文学賞候補として名前を聞いたような気がする程度の認識しかなかった。

 

ラジオのインタビュアーは、柚木さんの作品はどれも、心情描写が優れていると何度も何度も言うので、興味が湧いて彼女の作品を読んでみたくなった。

 

翌日、ネットで柚木裕子さんのことを調べてみた。

 

<柚木裕子さんのプロフィル>

昭和43年/1968年岩手県釜石市生まれの今年54才、山形県山形市市に在住して執筆活動をしている。家族は夫と成人した男女の子供。

 

 

平成20年/2008年「臨床真理」で第7回「このミステリーがすごい」大賞の大賞を受賞して作家デビュー

 

その後、「検事の本懐」で大藪春彦賞、「孤狼の血」では直木賞候補にノミネートされ、日本推理作家協会賞を受賞し、映画化もされている。「盤上の向日葵」では本屋大賞2位を獲得、その他にも受賞歴が多数あり、「令和のベストセラー作家」として人気の作家のようだ。

 

柚木さんの個人的なことでは、

柚木さんの生母は、56才の若さで他界した。父親は再婚して義母と岩手県宮古市で暮らしていたが、東日本大震災津波で実家と両親が被災した。行方不明の両親を捜して、遺体安置所を歩き回った辛い経験を持つ。

 

柚木さんの作品は、その美しいルックスからは信じられないような暴力団抗争を描いた「孤狼の血」や、硬派で骨太なものが多く、人間の心情表現には定評がある。彼女が小説を書く上で気を付けているのは、「登場人物の筋を通すこと、それぞれにとっての正義とは何で、それをどう貫くか描くこと」だという。

 

ここまで調べて、彼女の作品を読むことの期待が更に高まったが、さて彼女の数ある作品の中で、何から読み始めたらよいか悩む。

 

同じくネット記事を見ていると、「柚木裕子のおすすめ小説13選」で、「本の雑誌が選ぶ2016年度ベスト10」で第1位に選ばれた「慈雨」という作品が目に留まった。

 

本の雑誌」は、椎名誠やその友人目黒孝二が立ち上げた雑誌で、目黒孝二が編集長だった20年以上前、私は毎月購読していた。そして、この雑誌記事を参考にして本を買って読んでいたが、当たりはずれが無く感動的な作品に出会うことが多かった。

 

その経験から、私の読む最初の柚木裕子作品は、迷わず「慈雨」と決める。

 

集英社文庫の「慈雨」を楽天のネット通販で購入し、届いた日とその翌日の二日で読了した。

 

 

私は映画やドラマもそうだが、その予告編やあらすじは、極力見たり読んだりしないようにしている。先入観の無い真っ白の状態でその作品に接したいからだ。

 

この物語は、定年退職した主人公の神場が妻と四国歩き遍路の旅に出る。旅に出た矢先に、退職前に勤めていた管内で少女誘拐事件が発生し、それが16年前に神場が捜査した事件に酷似していた。それは解決していたが、神場には悔恨のある事件だった。元部下の刑事から定期的に状況連絡を受け、二つの事件に思いを馳せながら遍路を続けるというものだ。

 

私は、主人公が四国遍路すると知ったのは、読み始めてからなので、この作品により親近感を覚え、遍路の情景描写が私のへんろ旅を思い起こし、懐かしく読み進んだ。

 

私のへんろ旅の目的は、非日常の体験とかスポーツ感覚での達成感を味わう事、一期一会の出会いを楽しむこと等旅の要素が強いものだったが、遍路巡礼者の目的は、心の安寧を求めたり、贖罪であったり人により様々である。

 

この物語の主人公は、現役時代に関わった事件被害者の弔いの為と言う目的で歩き始めるが、旅の途中で、神場がこれまでに体験してきた不条理な出来事の数々を思い起こし、遍路に疑問を感じるようになる。

 

「・・・神場は巡礼をしている自分が愚かに思えてきた。辛い思いをしながら札所を回って、読経をし、仏に手を合わせる。そんなことをして何の意味があるのか。神も仏も無常だ。何人も救われることはない。・・・」

 

神場は「巡礼をやめようか」と思うが、途中でやめてしまえば、被害者たちの魂に顔向けできないと思い返す。そして、様々な人に出会い自己を見つめ直していく。

 

2ヶ月の遍路の末結願を迎えるころ、事件も解決に向かい、神場は巡礼を通してひとつの覚悟を固めていく。それは刑事としてと言うより、その前の人としての矜持を示すことであった。

 

読後感としては、将に作者の意図するところであろうが、組織への忠誠と正義への信念の狭間で葛藤する主人公神場の描写が上手く描かれている。

 

「組織と正義」は経済小説や警察小説では、よく取り上げられるテーマで、特に目新しいものでは無い。だが、神場が四国遍路をしながら、妻や娘のことを思い巡らし、過去と向き合い、自分と向き合い、正義とは何かを問いかけ続ける姿には共感を覚えた。

 

作者の柚木さんは、この作品について、「生き直すことをテーマに書きたかった。過ちを犯し、後悔の念を抱いていない人は少ないと思う。生き直さなければならないと思う場面に遭遇した時に、どう向き合って決着をつけるかが問われる。」と語っている。

 

主人公の神場が、一つの答えを示している。