朝から雨でテニスが中止になり終日家で過ごすことになった20日の午後、ネット記事を見ていたら、速報で火野正平さんの訃報が流れた。
私はNHKBSで2011年から放送されている「日本縦断こころ旅」を殆ど毎回見ていたので、身内の兄弟か旧知の友人の訃報に接したような感覚で驚いた。
所属事務所の公式サイトで「4月より持病である腰痛の治療に励んでおりましたが、夏の腰部骨折を機に体調を崩し、最後まで仕事復帰を願っておりましたが叶いませんでした。11月14日逝去、享年75才」と発表された。
この速報の後、正平さんとご縁のあった芸能界や各界の方々の追悼文がネットに多数掲載され、経歴も公表された。
それによると、正平さんは12才で「劇団こまどり」に入団し、1973年大河ドラマ「国盗り物語」の豊臣秀吉役に抜擢され、以後「新必殺仕置き人」の時代劇、「混浴露天風呂連続殺人事件」等の2時間ドラマや、数多くの映画、ドラマに出演していた。
正平さんは又「プレイボーイ」とし数々の女性と浮名を流し、「昭和の色男」「元祖プレイボーイ」の異名もある。その女性遍歴を悪く言う人もいるが、女性からは熱い、男性からは嫉妬の眼差しが送られる人であった。
正平さんと関係のあった女性は別れても彼を決して悪くは言わないと言う話は有名である。それだけ女性を大切に扱い、人間としての魅力があってのことだと思われる。
私は上記のドラマは見ていないが、NHKBSの旅番組「にっぽん縦断こころ旅」を13年間見ていたので、この番組を通して正平さんの人となりや魅力を知ることになった。
「こころ旅」は、相棒の自転車「チャリオ」に乗って、視聴者から寄せられた手紙に書かれた「こころの風景」を訪れ、全国を旅する番組だ。
13年前に番組が始まった頃、正平さんも60代前半で、一日に50㎞近く走ることもあったが、徐々に走行距離は短くなり、きつい登り坂道では、地元の軽トラに自転車ごと乗せてもらって坂上まで行くことも増えた。スタッフも気を遣って出発点は丘の上とか見晴台と言った標高の高いところからスタートすることが多くなった。
登り坂では、ハーハーと苦しそうに喘ぎ、幾度も自転車を止めて休みながら登り、そして下り坂は、正平さんの名セリフ「人生下り坂最高!」と叫びつつ駆け降りるのである。
正平さんは高所恐怖症らしく、高いところに架けられた橋を自転車に乗って走ることができない。前と足元だけを見て、自転車を押して歩いて渡る。どうしても山の吊り橋を渡らねばならなくなった時は、本当に怖そうに渡る姿が子供っぽくて可笑しかった。
動物や昆虫が好きで、途中で出会った牛、馬、羊等には自転車を降りて頭や身体を撫でたりする。道を横切ろうとしている毛虫を見付けて、車に轢かれないように道端の草むらに移動してやる心優しいところもあった。へびも手で捕まえてスタッフに見せ、彼が怖がって逃げる様もテレビに映った。悪戯好きで茶目っ気のある子供のような人だった。
正平さんは全国どこへ行っても、老若男女から声をかけられ、一緒に写真を撮ってとせがまれる人気者である。それにも気さくに応じていた。正平さんの方も旅先の食堂や売店で可愛い娘さんや女性がいると必ず声をかけ、楽しい話で笑わせる。
長崎県壱岐の神社の売店の女性が美人で「花婿募集中」と聞くと「俺でもいい?この旅が終わったら迎えに来るから」と冗談を言う。昭和のプレイボーイの片鱗が窺えた。
自転車で走っている時、時々正平さんの歌がバックで流れることがある。はじめ歌手の誰かが歌っていると思ったら正平さん本人だった。これがなかなか上手い。優しい低音が魅力だ。後で知ったが、彼は’77年から歌手としても活動していたそうだ。
役者だから当然かもしれないが、低い響く声で視聴者からの手紙を読む声は素敵で上手い。
「こころ旅」は、今年の「春の旅」は正平さんの腰痛で中止が決まり、「秋の旅」は正平さんが戻ってくるまで、俳優の柄本明さん、田中要次さん、田中美佐子さん、昭英さんが正平さんの代役で走っていた。彼らも私も、正平さんは腰痛が治ったらまた戻ってきて旅を続けるものと思っていた。
1200日を超える自転車旅を続け、私たちを楽しませてくれた正平さん、本当にお疲れさまでした。ご冥福をお祈りいたします。安らかにお眠り下さい。