二題

1. 誕生会

 

テニスと卓球で同じサークルに入会しているSさんとは、もう15年以上も親しくおつきあいさせていただいている友人である。同学年と言うこともあって、幼いころや、これ迄暮らしてきた時代背景が同じで、子供の小中学校が同じことや、環境もよく似ていることから、話していて共通の話題には事欠かない。

 

テニスや卓球で一緒になった時は、練習後近所のマクドナルドでコーヒーを飲みながら雑談するのを常としている。彼は性格が明るく温厚で、面倒見がよいので、周りの人達からも信頼され親しまれている。私とはウマが合うというか、普段から気を遣うことも無く接することができる貴重な友だ。

 

彼は神奈川県の山間部で、10人以上の兄弟の末っ子として生まれ、父親は彼が物心がつく前に亡くなったとのことで、母親一人と上の兄姉たちに育てられ、幼少時は苦労したそうだ。今でもその当時の母や兄姉たちへの感謝の言葉をよく口にする。

 

彼は近隣の地方自治体に就職し、地方公務員として定年まで勤めあげ、その後週1~2回のアルバイトをこなしていた。20数年前から、自宅近くの公園でラジオ体操を主催し、現在も雨の日以外は、毎日代表としてメンバーの前に立っている。旅行等で代表を代わってもらうことはあったが、病気で休んだことは一日も無いそうで、その忍耐力、継続力、行動力には頭が下がる。

 

         写真ACより   あのんさんの作品

 

私はよく彼からラジオ体操に来ないかと勧誘されるが、私は早朝にはめっぽう弱く、6時半頃はもっぱら布団の中でラジオを聞きながらまろどんでいる。

 

彼は、毎日のラジオ体操以外に、週3~4回のテニスと週1の卓球を楽しんでいる鉄人だ。口では「最近疲れるようになった」と言っているが、そんな様子は微塵も感じられない。

 

その彼が、先週誕生日を迎えた。その日は卓球練習日だったので、練習後のMACで私からのささやかな誕生祝をした。私は彼より約半年遅い生まれなので、彼は同学年であるが、半年の先輩だ。彼はしきりに「世の中には、戦争で苦しんでいる人も沢山いる中で、この年になって、病気もせずにテニス卓球を楽しんでいられることは、ありがたいことで心から感謝している」と言っていた。

 

彼は私の半年前を歩いているので、私の半年先の指標として、これからもつきあっていきたい。

 

 

2. 商店街

 

この町に引っ越してきて既に40年以上経つ。その当時、まだ近くにスーパーは無く、普段の買い物は、歩いて10分程の商店街で調達していた。

 

その商店街は、大きなマーケットの周りを小さな商店が幾重にも囲み、市内でも大きな方だった。八百屋は6~7店、魚屋は3~4店、その他肉屋、総菜屋、餅菓子屋、酒屋が複数店あって競い合って商売をして活気があった。弁当屋お茶屋洋品屋、靴屋、花屋等もあった。買い物客相手のそばや、洋食屋、中華屋、すし屋もあって、一通りの買い物と食事ができる商店街だった。

 

商店街にはアーケードができ、店も改装してきれいになって、土日の商店街は買い物客で溢れていた。その中でも「魚〇」という魚屋は、マーケットの中の4~5店分の売り場に魚介類を所狭しと並べ、仲卸のように大量に売りさばいていたので、一般客以外に町の個人商店主も多く買いに来ていたようだ。

 

年末になると、この「魚〇」の売り場の頭上にはずらりと荒巻鮭がぶらさげられ、歳末セールには、正月商品のいくら、うに、数の子、蛸、鯛、鮪等を買い求める客で、通路の歩行が困難なほど賑わった。

 

そのころがこの商店街のピークだったのだろうか?その後周りにスーパーができ始めた頃から、商店街の客足は次第に落ち、賑わいを失っていく。1店、2店と閉店が続き、マーケットの中で店終いした店の内面を紅白の幕を張った姿が、かえって寒々しく目に映った。

 

あの「魚〇」も店をたたみ、魚屋が去り、肉屋が去り、ガラガラになった商店街は八百屋だけが一軒の残って商売を続けていた。この八百屋で扱っていた「平塚トマト」が美味しくて、私は毎年箱売りで買っていた。

 

先週「平塚トマト」を売っているかとこの商店街に行ってみた。すると、なんと目の前には、その八百屋が入っていたマーケット全てが、撤去され更地となっていた。いつかこういう日が訪れることは予想はしていたが、商店街が完全に無くなってしまった姿を目の当たりにすると、一抹の寂はさを覚え、しばらく感慨にふけっていた。