忘年会

今年も12月に入り、余すところ一ヶ月となった。時の過ぎるのはいつでも同じはずなのに、年を重ねるごとに感覚的には早くなる。

 

忘年会の時期となった。コロナ禍で三年間忘年会などの宴会は自粛されてきたが、今年は規制が解除されたので、4年振りに忘年会を開催する企業も多いと報道されている。師走の街もコロナ禍前のような喧騒が戻ってくることだろう。

 

コロナ禍の期間中に就職した若者は、今年始めて会社の忘年会に参加するという者も多い。忘年会の意識も昔とは様変わりしているようだ。会社の忘年会というと、参加が当たり前だったが、今は欠席する若者も多いと聞く。今の管理職は忘年会では、パワハラ、セクハラにならぬよう若者にことのほか気を遣うらしい。

 

私もこれ迄いろいろな忘年会に出てきた。記憶に残る幾つかの忘年会を綴ってみたい。

 

① 山岳部忘年山行

結婚前の独身時代、会社の山岳部に入っていた。毎年暮れに、なるべく多くの部員が参加できるようハイキング程度の山行が計画されていた。ある年(具体的には忘れた)の12月10日、旧碓氷峠忘年山行に参加した。

 

横川駅からのハイキングコースを峠に向かって歩く。林の中のコース道は落ち葉に覆われ、ふかふかの絨毯の上を歩くようで気持ち良い。先輩の男性部員が若い女性部員に面白い話や冗談を言いながら登っていく。その話が面白くて女性たちはキャッキャッ言いながら後を追う。

 

私は当時山岳部に所属していたが、一人で登ることが多かったので、こんなに沢山の部員と一緒に登るのは初めてのことで、特に女の人は、この時初めてお会いする方がほとんどだった。

 

やがて峠に着いた。この日は朝から快晴で、目の前に広がる真白な雪を被った浅間山は真っ青の空に映えて、それはそれは美しかった。

 

           写真ACより  m.maeda さんの作品

 

この時の女性の一人が、後に私の連れ合いとなった。

 

② 川崎忘年会

入社して私は会社の寮に入った。所属は川崎の研究所だ。その寮から同じ研究所に通う私の同期と一年先輩の7人が、仲良くなっていつしかグループができていた。会社の帰りに飲みに行ったりもしていたが、年末には7人で忘年会を開くことが恒例となった。

 

私が一番の若輩だったので幹事をし、場所は川崎駅前商店街の少し奥の居酒屋とした。ここは、人の良さそうな太ったオバサンが切り盛りし、会計もリーズナブルであった。いつも二階の窓際の、下の商店街を通る通行人を見下ろせる席で、大きな土鍋を囲んで一年の各自の出来事を報告したり歓談した。年末に皆と食べる寄せ鍋の味は格別だった。

 

この店に通い始めた頃、オバサンは赤ちゃんを横に寝かしながら仕事をしていた。最後に訪れた時、その赤ちゃんは10才位になっていた。

 

それから20年程して、たまたま川崎に行く機会があり、懐かしくなってこの店を捜してみたが無くなっていた。

 

この時の7人の仲間とは、会社を退職した後も、東京や横浜で会食したり、旅行に行ったりしている。コロナ禍の3年は外食ができなかったので、オンラインで親交を続けた。

 

③ 現場事務所忘年会

30代になって職場は研究所からエンジニアリング部門に変わった。愛知県の石油会社のプラント建設の担当になり、夏から半年程、現場建設事務所に所長代理として赴任した。

 

現場事務所は、所長が社長の小さな会社のようなもので、事務所には各種の下請け企業の社長や営業部長の来訪が絶えなかった。

 

12月にプラント建設が完工し、試運転が始まり一段落したところで、現場事務所の忘年会が行われた。シャンデリアの付いた豪華なマイクロ観光バスをチャーターして、現場から木曽の馬込を観光し、そこから飛騨の下呂温泉へ行って忘年会の宴会をするというものだ。

 

下呂温泉の忘年会は、温泉の芸者さんやコンパニオンも加わって豪華で華やかなものとなった。

 

宴会が終わって露天風呂に入っていると、外は雪が降り始め、五木ひろしの「細雪」のような良い風情だった。その時所長から呼び出しがあり、試運転中のプラントの機器から液が吹き出していると顧客から電話があったと言う。

 

今から現場に戻って対応してくれと言われる。私とプロセス担当、エンジニアリング担当の3人で、真夜中の雪の中をタクシーで下呂から愛知県の現場に向かった。

 

現場には未明に到着し、処置して事なきを得たが、慌ただしい一日だった。残りの者は、翌日バスで高山を観光して帰ってきた。

 

 

④ テニス忘年会

会社を退職してからテニスと卓球を始め、一時は三つのテニスサークルと四つの卓球サークルに同時に入っていた。暮れになって、忘年会開催の話が出るのは、いつも卓球の方で、テニスは練習会で会ってプレイしてそれで終わりということが多かった。

 

卓球は、ウェットで人間臭い人が多く、テニスは、ドライでクールな人が多いように思える。

 

テニスを始めた頃、テニススクールに通っていて、そこで知り合った私と同世代の男性(Tさん)と主婦たちに声をかけ、私が新しいテニスサークルを立ち上げた。当時その主婦たちは皆アラフォーの世代で、私から見ると独身のお嬢様のように若々しく見えた。

 

暮れになると、私は代表として忘年会を提案し開催した。会員の男性は、私とTさんの2人、あとは主婦6人の計8人。お店はオジサン臭い居酒屋は避けて、主婦たちに聞いたお洒落なスペインレストランとする。

 

当時主婦たちは、小学校の低学年か幼稚園児の母親で、一次会での話題は専ら子供の話で、私やTさんが話題に入り込む余地は無かった。

 

二次会はカラオケに行く。カラオケは苦手の人も多いが、この日は全員が参加した。皆さんお上手で、歌いなれているようだ。私とTさんの選曲が主に昭和の歌に対して、主婦たちは新しかったり若者向けの知らない曲が多い。年の差を感じた。

 

このサークルは、その後主婦たちの子供が大きくなって手がかからなくなると、パートなどの仕事に就く人が多くなった。一人やめ二人やめと会員が減少し、やめなくとも欠席する人が増え、出席者が3人を割ることもでてきて、残念ながら解散した。

 

 

今年は4年振りに、忘年会の誘いがあったが、それはやはり卓球でテニスは無い。