前々回のこのブログで、NHKBS「京都人の密かな愉しみ」という番組について軽く触れたが、12月現在も毎週木曜日に3話づつ再放送されている。今回もこの番組で放送された内容が興味深く面白かったので、私見を交え再度記すことにします。
「水の美学 編」の冒頭のナレーションは、次のようなものだ。
京都 なんと蠱惑的な響きをもつなか
我々を引き付けてやまない
この町の魔法の原点はなにか?
それは「人」である
文化人類学的に言うと日本には二種類の人間が住んでいる
日本人と京都人だ
生粋の江戸っ子とは「両親ともに江戸生まれで、さらに三代江戸に住む住人」を指しているのに対して、京都人と呼ばれるにはさらに関門が狭い。「三代目までは、よそから来はったお人」で、五代目以降が「立派な京都人」なのだ。
京都言葉は難しい。「おーきに」は発音やイントネーションの違いで、「ありがとう」にも「大きなお世話です」にもなる。
京都人との会話では、彼らが本音と真逆の言葉を発することがあるので、よそから来た人は、よくよく注意が必要だ。
例えば
「ぶぶ漬けでも どないどす?」は「そろそろ帰ってくれます?」の意で「それではご馳走になります」と言ってしまったら身もふたもなく、「言葉の分からない人」と嫌われる。京都特有の湾曲表現で遠回しな「お帰りになっては」という催促なのだ。
その他
・「何もあらしまへんけど」は、「すごいでしょう?このご馳走」の意味。
・「考えときますわ」は、京都人は「お断りします」の意味で使う。
・「いつでも遊びに来ておくれやす」は、「といっても気軽に遊びに来ないでね」が京都 人の本音である。同じような言葉で
・「よういらっしゃいましたなぁ」は、「もう来んどいて」と内心思っているかもしれない。
・「えらい勇ましいことどすなあ」は「無茶なことをするなあ」と直接的に非難することを避ける言葉だ。
・「よろしおすなぁ」は、本気で誉めていないケースが多い。自分とは関係ありませんけどねというような距離感がある。
・「まあ、ええんとちゃいます?」は、全く肯定していないことが多い。「私は関知しませんけどね」の含み。
このように、京都言葉には表向きは丁寧で柔らかいのに実は別の意味の本音が隠されていることが多い。これは、京都という街の歴史、社会、文化が結び付いた結果と言われている。
そこから直接否定しない、相手の面子を潰さない、関係を壊さないような湾曲表現の言葉が洗練されてきたのだ。
京都人は無神経で配慮の足りない行為や言葉を極端に嫌う。自分がそうなので他人に対しても節度を持った接し方をする。直接的で露骨な表現は避け、遠回しに時には前記のような真逆な言葉になったりする。相手の心を慮(おもんばか)って会話することが大切なのだ。
京都人は古来からの自分たちが築いた文化を愛し誇りに思っている。京都人は「そとのお人」に京都のやり方を押し付けたりはしない。それが理解できないと言われたら、放っておいて欲しいと考える。
この「放っておいて、構わないで」は「ほっちっち」という「わらべ歌」として京都では歌われ、大人も歌っているということだ。
<ほっちっち>
ほっちっち かもてなや
あんたの子じゃなし 孫じゃなし
赤の他人じゃ ほっちっち
ほっちっち かもてなや
あんたの子じゃなし 孫じゃなし
親戚なったら かもてんか
ほっちっち かもてなや
あんたの子じゃなし 孫じゃなし
赤の他人じゃ ほっちっち
「一見さんお断り」の文化とか本音で会話をしない京都人に対し、京都を好ましく思わない人種もいるが、京都人は逞しい。
「余計なことまで踏み込んで言わんといて!『いけず』と思われてもいいから、放っといて!少々の誤解や評判の悪さに耐える図太さが無いと、都の住人はやってられまへん」ということらしい。
ー了ー