リハビリセンターの言語聴覚士に新しい女性の先生が加わった。先週この先生のトレーニンを受けることになり、開始前の休憩時間に雑談をした。その時、彼女は最近山の魅力に取り付かれ、登山にすっかり嵌(は)まってしまい、丹沢によく出かけると言っていた。
それを聞いて、そういえば私も20代の頃山に嵌まり、ガムシャラに山に登っていたなぁ~と懐かしく思い出された。
私が山に登るようになったのは、新田次郎の「孤高の人」という山岳小説を読んで感動し、主人公 加藤文太郎の生き方に共感し憧れたからである。
※ 加藤文太郎は大正から昭和ににかけて活躍した登山家である。当時の登山は、現代のような大衆登山と異なり、装備や山行自体も多額な費用が掛かり、パーティーを組んで登るのが通例で、北アルプス等の山深い場所へ行く時は、猟師をガイドに雇ったりしていた。お金持ちのスポーツだったのだ。文太郎は高価な登山靴を持たず地下足袋で、しかも単独行で、幾多の登攀を成し遂げた。昭和11年1月槍ヶ岳北鎌尾根で遭難、帰らぬ人となった。
私もそれまで、登山の経験はほとんどなく、学生時代の夏休みに先輩に連れられて、北アルプスの室堂から三俣蓮華まで(裏銀座コースの一部)行ったことが唯一の登山経験だった。
加藤文太郎に憧れて始めた山登りだから、もちろん単独行だ。近場の丹沢、奥多摩、から奥秩父、八ヶ岳、南アルプス、北アルプスへと足を延ばし、無雪期の山は何とか単独で行けるようになった。
当時、一流クライマーはロッククライミングを駆使して、ヨーロッパアルプスやヒマラヤの冬季登攀が盛んになされていた。私は華麗なロッククライミングは、とても私にはできないと判断し、加藤文太郎のようなドンクサい縦走を選んだ。
そして冬がきた。最終目標は文太郎のように、単独行で冬の雪山を、雪洞掘りながら移動し、山頂を極め縦走するというものだった。
文太郎は吹雪の時は雪洞を掘って潜り込み、甘納豆と煮干しを食べながら吹雪が止むのを待ったと本で読んで凄く感動したものだ。
学生時代、山岳部にもワンゲル部にも入っていなかったので、雪山の技術的なこと(雪上歩行、ラッセル、アイゼン、ピッケルの正しい使い方等)は本の知識しかない。クリスマス前に一人で富士山へ行き、雪上訓練をしようと思い立った。
写真ACより acworks さんの作品
12月21日午後、電車で富士吉田まで行き、そこから歩く。市街地を通って浅間神社まで行くと、そこから吉田口登山道が始まる。馬返までは8㎞だ。明るいうちに五合目まで行くのは無理なので、途中の草原でツェールトを張ってビバークする。
12月22日早朝出発し、馬返から登山道を歩いて、昼前には五合目の山小屋に到着。五合目近辺から上は雪が積もっていた。山小屋に荷を預け、早速自主雪上訓練にでかける。
小屋を出て登山道は、ほとんど凍結していたので、すぐに初めてのアイゼンを装着する。アイゼンを履くことで、凍結道も難なく歩くことができ、アイゼンの威力を実感する。
写真 ACより 隊長 37さんの作品
五合目と六合目の中間あたりに窪みがあり、傾斜もあって適度に吹き溜まりの雪がある場所を見つける。
斜面に仰向けになってピッケルを胸にして足から滑り降りる。途中スピードが付く前にうつ伏せになってピッケルのブレードでブレーキをかける。数回やってみたが、想像したより難しい。実際転倒したらどういう体形になるか分からないし、スピードがついたら、ピッケルだけで滑落停止させるのは、無理だと分かった。
12月23日朝起きて外へ出てみると、風はほとんど無くガスっている。下界はは晴れているかもしれないが、五合目から上は雲の中だ。視界は10mくらい。富士山の夏道登山道に沿って、行ける所まで行って引き返そうと考える。朝食後山小屋に荷を預け、アイゼンを履きピッケル片手に、サブザックで出発する。
夏道はジグザグに続いているが、アイゼンで凍結した斜面を直登することができ、夏道よりは距離が短縮できる。しかしここで転倒したら何百mも転げ落ち、一巻の終わりだ。
夏道沿いに、規則正しく六合目、七合目、八合目、九合目の閉鎖された山小屋が続く。ガスっているので、足元と数m先を見ながら登っていると、目の前に急に小屋が現れ、ビックリする。アイゼンでしっかり斜面を踏みしめているので、夏に登るより登り易いかもしれない。(私は夏の富士登山は経験ないが)
高度を増すごとに勾配がきつくなり、視界も悪くなる。突然十合目の鳥居が現れた。視界は1m位か?ホワイトアウトのような状態だ。風も少し出てきた。これ以上の進行は危険と判断して引き返す。
下りは上り以上に注意が必要だ。特に富士山は突風が怖い。ピッケルを杖にして慎重に下る。八合目あたりから視界も少し良くなってきた。すると一面のガスの中で、右下の方に楕円形のぼんやりしたものが見えた。
それは七合目でも六合目でもずっと、全方位が薄いグレイのガスの中で、同じ位置に見えていた。何だろう?何だろう?と下りながらずっと考えていた。そして五合目の山小屋近くまで降りてきたとき、「山中湖だ!!」と気が付いた。ガスの中、回りの景色は何も見えず、山中湖の湖面だけが、うすぼんやりと見えていたのだ。
午後、山小屋から全装備を担いで下山する。雪が舞い始めた。二合目くらいで雪から雨に変わる。馬返しを過ぎた頃には、冷たい雨の本降りとなる。日も暮れて、ヘッドライトで歩く浅間神社までの8㎞の一本道が、殊の外長く感じる。雨は下着まで染み込んで冷たく寒い。歩いていても、身体の運動による発熱量よりも雨による放熱量の方が多く、寒さは増すばかりだ。冬の雨は雪より手強い。
浅間神社を過ぎて富士吉田の市街地に入る。寒くてたまらない。街の人に銭湯を教えてもらい入浴した。芯まで冷えた身体には極楽であった。
その後の積雪期の単独行は、加藤文太郎のようにはいかなかった。奥秩父の金峰山、八ヶ岳で雪上にツェールトを張って登山し、越後駒ケ岳から中ノ岳への縦走を試みた時は、尾根の雪庇の張り出しが大きく、危険を感じ引き返した。雪洞は南アルプス北岳麓の樹林帯で横穴を掘って一晩過ごしたが、ツェールトに比べ暖かく快適だった。
二人行では、厳冬期に南アルプスの鳳凰三山から早川尾根を縦走し、3月の晴れた日に、富士山の大沢崩れを登った。この時視界は絶好であったが、二人とも体調が悪く(高山病のような症状)八合目位の標高の地点で下山した。
今思えば、二十代は結構無茶で無謀な山登りをしていたが、その時にしかできない体験もできた。懐かしい思い出である。