へんろ日記 2

前回(10月26日アップの「へんろ日記 1」)の続きです。

 

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10月25日(水)(晴)(2017年/平成29年)

<3日目 吉野川市鴨島→12番焼山寺

 

7:20 鴨島のビジネスホテルの朝食(小さなパン2ケ、サラダ、ゆで卵)を食べて出発。

7:50 昨日参拝した11番藤井寺の境内を通り、裏手のキツイ勾配の山道を登り始める。いよいよ「へんろ転がし」だ。ここから焼山寺までには、六つの難所があり、へんろ道に沿って1/6~6/6の道標が立てられている。

 

9:15 1/6を登り切って長戸庵着、大量の汗をかき半袖Tシャツ一枚となる。かなり登ってきて、時々右手に昨日渡った吉野川吉野川市が一望できる。

 

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10:30 柳水庵近くの休憩所で一服していると、外国人の男女二人連れがやって来た。彼らはオーストラリア人で、今日の宿は、焼山寺から下った先の民宿とのこと、英語のガイドブックには焼山寺で宿泊できるとは書いていないらしい。彼らにアーモンドチョコを進呈する。

 

11:40 浄蓮庵 ここには「左右内(そうち)の一本杉」という県指定天然記念物の巨木が生えている。看板によると、弘法大師焼山寺へ向かう途中、木の根を枕にして仮眠したところ、夢に阿弥陀如来が現れたので、尊像を刻みお堂に安置した。その時大師がお手植えした杉であると言い伝えられている。 樹周 7.62m、樹高 約30m

 

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しばらくすると、地元の主婦らしき3人連れが現れ、ここでお昼を食べて引き返すそうだ。女性が3人揃うと話が弾み賑やかになる。

 

12:50 浄蓮庵から急な坂を下って県道43号に出る。ここには数軒の農家が点在し秋の陽に照らされ、庭にはコスモスがが咲いて長閑(のどか)な光景だ。左右内谷川を渡って、本日最後の「へんろ転がし」6/6の登りにさしかかる。初回この登りは死ぬほど苦しかったが、今回は前回ほどではなかった。

 

14:00 焼山寺山門 焼山寺の敷地は広大だ。お寺の境石が現れてから山門まで15分位歩く。焼山寺にはへんろ道脇の涅槃仏や境内の子供の石像等石像が多く存在する。

 

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14:25 宿坊着 本日は焼山寺に泊まる。焼山寺は標高700m、周りには民家が一軒もない山寺だ。部屋は宮城県の男性と相部屋となる。彼は今回が5回目のへんろで、収め札の色は青緑色であった、(1~4回は白)

 

18:00 夕食、  20:10 就寝

 

3日目の歩数 33,900歩  歩行距離 22.0㎞

 

 

 

10月26日(木)(晴)

<4日目 12番焼山寺→13番大日寺

 

6:40  朝食、ここの食事は田舎風精進料理でとても美味しい。ご飯をお代わり3杯した。御住職の都合で朝のお勤めは中止となったので、1時間程で往復できるという奥の院へ行こうかとも考えたが、キツそうで今後の歩行の支障になると判断して止める。

 

8:00 焼山寺出発。

8:25 杖杉庵(じょうしんあん) 焼山寺から山道を2㎞ほど下り舗装道路へ出ると、イチョウの大木の下に四国遍路の元祖と言われている「衛門三郎」ゆかりの杖杉庵があり、その伝説が看板に書いてある。

 

「伝説」平安時代前期、伊予の国の豪族で長者であった強欲な衛門三郎は、四国を巡っていて宿を乞うた弘法大師に、断った上に太子の鉢を投げ捨て割ってしまうという無礼な行いをした。その報いで自分の8人の子供が次々に病に倒れ死亡する。改心した衛門は大師に無礼を詫びる為、大師の後を追って旅に出るが、四国を20周巡っても大師に会えない。21回目は、逆回りで旅したが、この地で力尽き倒れる。そこへ大師が現れ、衛門は非礼を詫びて息を引き取る。大師は衛門を許し、この地に葬り、墓標として衛門が遍路に使用していた杉の杖を立てた。これが根を張り杉の大木になったという。

 

お堂の前には、衛門が大師に巡りあえて、詫びている姿の像がある。

 

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9:00 すだち館 すだちジュースとお茶を買う。この辺りは全国的にも有名なすだちの産地である。

 

9:30 県道43号分岐 ここから林道を通って玉が峠へ向かう。途中「全面通行止め」の看板が出ている。歩行もダメなら、すだち館まで戻って別ルートをとらなくてはならない。

 

通行止めの現場に着いて状況を観察すると、道路は舗装のアスファルトは繋がっているのだが、その下の土砂は雨で削られて無い。崖を削って作られた林道なので、横から見ると道の下の土砂がアーチ状に削られ上部のアスファルトのみが水平に繋がっている。

 

車が通ればその重さでアスファルトは崩れ、崖下の谷へ転落するだろう。人間の重さなら大丈夫とは思うが、その保証はない。通行止めの区間は10m位だ。ドキドキしながら息を詰めて一気にアーチ部を通り抜ける。渡り終えると背中に冷や汗をかいていた。

 

10:05 玉が峠 ここからはへんろ道となり、10:30 道沿いのへんろ小屋で休憩する。遥か右下を流れる鮎喰川(あくいがわ)と点在する部落の絶景に癒される。

 

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11:25 鮎喰川沿いの県道がへんろ道となり、鮎喰川を眺めながらの車道歩きが続く。

 

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14:30 13番大日寺 大日寺と言う札所は、88カ寺の内 4番、13番、28番と三つの同名のお寺が存在する。へんろを始めて2回目の大日寺だ。

 

15:00 大日寺に隣接する旅館を本日の宿とする。宿では逆打ちのおへんろさんと同宿。食欲があまりなく、アルコールも始めて抜いた。

 

4日目の歩数 40,700歩  歩行距離 26.4㎞

 

 

10月27日(金)(晴)

<5日目 13番大日寺徳島市二軒屋町>

 

7:00 大日寺横の宿を出発 宿の体重計で荷の重さを量ったら、ザック7.5㎏、さんや袋2.5㎏、計10.0㎏であった。

 

7:35 14番常楽寺 8:05 15番国分寺 8:40 16番観音寺 と札所が何れも徳島市内の街の中に集中しているので、効率よく参拝できる。観音寺は周りに家や店が密集していて、これまでの札所より境内も狭く、町のお寺という感じで趣が異なっていた。

 

9:20 17番井戸寺 徳島市内の札所の中では、一番大きく重厚で堂々としたお寺だ。ここの御本尊薬師如来のお姿が美しい。写真撮影が可と言うことで撮らさせてもらう。

 

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太子堂へ向かうと、丁度10人ほどの雲水(修行僧)の団体が、墨染めの衣に草鞋姿で御参りをするところだった。彼らは一斉に般若心経を読経し始めた。我々素人の読経と違い、さすがプロの読経は美しく厳かな合唱を聞いているようで、心打たれた。

 

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10:25 徳島市街地に向かう大きな道路沿いのショッピングセンターに立ち寄る。ここは初回に来た時にも寄ったところで、100円ショップも入っていて、これまでの旅で不自由したもの等を調達できる貴重な場所だ。今回は、マスク、定規、マグネシウム薬等を買う。果物屋でミックスジュースをオーダーした。

 

12:00 街のど真ん中に遍路用のへんろ休憩所があり又休む。今日は休んでばかりだ。

 

13:05 眉山麓、瀬戸内寂聴さんの実家が営む仏具店の前を通って、二軒屋町ビジネスホテル着、この旅一番の早い到着だ。宿泊料は一泊二食で5000円と徳島市内なのに、驚くほど安い。その代わり設備は古く、エレベーターもない。食事はホテル内のレストランでするのだが、料理はボリュームが十分で美味しかった。

 

19:50 洗濯をして就寝

 

5日目の歩数 30,700歩  歩行距離 20.0㎞

 

 

              ー続く(非定期)ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

へんろ日記 1

今回からの「四国遍路」は、2017年(平成29年)秋から初冬にかけて旅した二回目の「四国へんろの旅」を、日記風に綴ってみたいと思います。(非定期)

 

 

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10月22日(日)(2017年/平成29年)

<旅の出発>

1番霊山寺から巡拝する場合、序盤の難関11番藤井寺から12番焼山寺の遍路転がし(急な山道の続く難所)を、無事通過することがその後の旅の重要なポイントだ。ここは普通に歩けば三日目に当たり、晴れた日に通過したいので、その日の天候は非常に気になる。

 

出発の数日前から、毎日徳島県北東部の週間天気予報をチェックしていた。この日(22日)は台風21号が四国に接近するので、出発は24日の台風が過ぎ去ってからと考えていた。

 

5:00に起きて、徳島県の天気を見ると、明日(23日)雨は明け方には止んで、その後3日間は晴れマーク、24日出発だと3日目の天気があやしい。急遽本日の出発を決意する。長期間留守にするので、風呂掃除、冷蔵庫の片付けなどをバタバタとやって、自宅を8:10に出発する。

 

台風の影響で、雨が強く降っていたが、新幹線は通常運転、新大阪からJR大阪駅へ。西口のバスセンターでバスを待つ間に、本日と明日の宿へ宿泊前倒しの予定変更を連絡し、OKとなり一 安心。

 

12:40高松行の高速バスに乗車。発車してアナウンスで明石海峡大橋、鳴門大橋の風速が15m/S以上の場合は大阪に引き返すと告げられる。私の座席は1B、左の最前列で 運転手の運転の模様がつぶさに観察できる。

 

この運転手、高速道を運転中雨が強く降りしきる中、ペットボトルのお茶を飲んだり、ハンドルから両手を放して飴の袋を破いてと口に入れて食べたりしていた。それを見ていた私は、もう怖くなって「真面目に前を見て運転してよ!」と言いたくなるほどであった。

 

明石海峡大橋に着いたが、なんとか大阪へ引き返えすことなく橋を通過できた。淡路島に入ると、台風の風雨のため高速は、50㎞/Hに制限されていたが、バスは80~100㎞/Hの速度で飛ばす。雨は10~30mm/Hの大雨、スリップが怖い。

 

鳴門大橋の橋上に出る。風が強くなり走行中のバスは何度も横に流される。それでもバスは速度を落とさない。バスが横転するのではと恐怖心にかられる。「このまま何とか四国まで行ってくれ!」と祈る。

 

無事橋を渡って四国に上陸、15:00に鳴門西PA着、バスを降りて恐怖心から解放された。

 

外はどしゃ降りの雨だった。PAの軒下でザックから雨具を出し、万全の雨支度に身を整え、本日の宿(O苑)まで大雨の中を歩く。

 

15:30 O苑着、O苑は1番霊山寺東門の前にあり、参詣には絶好の位置にある。宿で濡れた雨具を乾かしている間に、霊山寺へ行く。霊山寺は本堂を修復中で、売店も移動しており、3年前に来た時とは、だいぶ様子が違っていた。本堂で明日からの遍路の無事を祈願し、売店で納経帳、収め札などを購入する。杖、笠、さんや袋、白衣、地図帳などは、初回使用したものをそのまま自宅から持参した。

 

O苑に戻り、18:00夕食、宿は料亭も兼ねているだけあって食事は牛肉の陶板焼き、鯛やヒラメの刺身、魚のから揚げ、茶わん蒸し等豪華で美味しかった。料金は少々高かったが、設備もよく満足のいく宿だった。

 

3年前の初回に泊まった宿は、老夫婦の営む民宿で、寝具の枕や布団のシーツが洗濯せずに前の客が使ったもので、度肝を抜かれた。遍路宿とはこういうものかと、その時思い、これから先もこのような宿のお世話になるのかと、暗い気持ちになったものだ。

 

今回のO苑はそれに比べると雲泥の差で、21:30気持ち良く就寝.

 

 

 

10月23日(月)(曇→晴)

<1日目 1番霊山寺→6番安楽寺

7:55 1番霊山寺は、昨日お参りはすませてあるが、もう一度参拝して、2番に向かう。台風は深夜に四国を通り過ぎて、東に去っていったが、朝方は曇りで、時折台風名残の突風が吹き、かぶっている笠が飛ばされそうになる。途中小さな川を何本も渡るが、どの川も、昨夜の雨で増水し、川幅一杯にゴーゴー音を立てて流れていた。

 

8:20 15分で2番極楽寺に到着。へんろ道のルートはよくできていて、旅の初めの1日目と2日目は、札所間隔が短く平地で歩きやすく、これから先長旅の足慣らしに恰好である。

 

極楽寺は、88カ寺の内、私の好きなベスト10に入るお寺である。お寺の手入れが行き届いており、清潔で清々しく心洗われるお寺だ。

 

境内に水かけ不動尊像があり、不動尊の前の2体の子供の像がとても可愛らしくて、カメラに収める。

 

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大師堂の陽当たり良い屋根で、2匹の猿(親子か?)が、毛繕いをしていた。

 

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9:20 3番金泉寺 納経所で次の4番へのルートは、大雨でへんろ道がぬかるんでいるので、先に5番へ行って4番を往復するよう勧められる。これだと4㎞ほど遠回りになる。私はロングスパッツを持参していたので、大丈夫と判断して、通常のへんろ道を取る。問題なかった。

 

途中へんろ道上にある「愛染院」というお寺でお茶の接待を受ける。その先の3年前に立ち寄った「うどん屋さん」は無くなっていた。

 

極楽寺金泉寺の南にある藍住町は、全国的にも有名な藍染めの産地だ。

 

11:00 4番大日寺の手前の道路には、台風で木の枝が散乱しており、お寺の若いお坊さんが掃除していた。空は晴れてきたが、風が強く周りの山がゴーゴーと鳴っていた。

 

11:35 五百羅漢 展示場の受付に、3年前の見覚えがあるお婆ちゃんと、その介助役の男性に再会する。柿の橙色が周りのお寺の景色に溶け込んで美しい。

 

11:50 5番地蔵寺着 初日ここまで非常に順調にきた。台風一過の快晴で、天高く真っ青な天空を飛行機が悠然と飛んでいる。このまま進むと次の6番安楽寺(今日の宿)へは、早く着きすぎるので、ベンチで靴下も脱ぎ、ここで長い休憩を取る。

 

今回1番からここ5番までへんろさんには、個人団体とも一人も会っていない。しばらくすると20代位の若いへんろさんがきた。彼は、般若心経の後に、梵語のお経も読んでいて感心する。彼は今日は10番まで行って野宿するそうだ。

 

13:00 地蔵寺発 平らな歩きやすいへんろ道を遍路の道標に導かれて進む。この辺りは和菓子の和三盆の産地でもある。上質なものは100g1260円もして上品な甘さを保っているとのこと。 

 

14:10 6番安楽寺着。部屋で荷物を整理し、風呂に入る。このお寺は「温泉山安楽寺」という名称だけあって、お風呂は温泉ホテルのような立派な岩風呂だ。夕食の後、僧侶の説話を聞いて20:00就寝

 

1日目の歩数:30,600歩  歩行距離:19.9㎞

 

 

10月24日(火)(晴)

<2日目 6番安楽寺吉野川市鴨島

7:10 6番安楽寺出発。早朝の気持の良い時間に、7番十楽寺、8番熊谷寺、9番法輪寺と順調に参拝を続ける。

 

10:05 10番切幡(きりはた)寺の参道到着。切幡寺の本堂と太子堂は333段の石の階段を登った先にある。前回は参道の表具屋さんから「荷物を預かりますよ」と声を掛けられ、ザックを預け、さんや袋だけでお寺を往復したが、今回は声掛けもなくザックを担いで往復した。(これが普通なのだが)

 

次の11番藤井寺は、この南を流れる四国第一の大河吉野川の対岸にある為、吉野川を渡らねばならない。この辺りの吉野川は中州が発達し、中州は広大な農地となっている。したがって、対岸へは、左岸-中州、中洲-右岸(川島橋)と二つの橋を渡る。

 

11:10 最初の橋を渡った先の道端に「川島橋通行不可」の看板が目に留まる。昨日の大雨による増水の影響だろう。車の通行不可は分るが、歩行もだめだろうか?と考える。農夫の方が軽トラで通りかかったので、聞いて見る。彼も人の通行については知らないとのことで、私を軽トラに乗せて現場まで運んでくれる。(歩くと30分以上の距離)「こころ旅」の火野正平さんになった気分だ。

 

この橋は沈下橋で、昨日までの大水で埋まり、今は水は引いたが橋は泥だらけで、小型のショベルカーでその泥の除去作業をしていた。作業員さんにショベルカーの横を歩いて通っても良いかと聞くと、OKとの返事。

 

軽トラの農夫さんと、作業員さんにお礼を言い、橋を歩いて渡る。まだ十分泥を除去していないので、靴はどろだらけとなる。沈下橋なので橋の欄干、手すりは無い。橋の10㎝位下の所を、濁った水がゴウゴウと流れていて、長い筏(いかだ)の上を歩くような感じだ。水を見つめていると目が回りそうだ。橋は7~80mはある長い橋なので、橋の途中で周りを眺めると大量の濁流に飲み込まれてしまいそうで怖かった。対岸についてホット一息つく。

 

11:50 岸の上のうどん屋さんに入る。徳島県北部のうどん屋さんは、お隣香川県に近いせいか讃岐うどんやさん形態のお店が多い。山菜うどんとレンコン天を注文、四国のうどん屋さんの味で美味しかった。店の人から接待でシユウクリームを頂く。

 

13:00 11番藤井寺、明日参拝の予定を本日中に済ませる。

 

14:00 ビジネスホテルチェックイン 洗濯をしながら入浴。

 

17:30 ホテルでは食事が出ないので、近くの回転すしで夕食

 

21:30 明日はへんろ序盤の難所「遍路転がし」だ。明日に備え就寝。

 

2日目の歩数:38,700歩  歩行距離:25.2㎞

 

 

              ー続く(不定期)ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倍賞千恵子さん

いつものようにネットサーフィンをしていて、倍賞千恵子さんの抒情歌に辿り着いた。ネット上には、倍賞さんの似たような名前のアルバムの動画が山ほどアップされている。

 

曰く「倍賞千恵子ベスト40」「倍賞千恵子ベスト25」「Chieko  baisho's  Best  Playlist 2021」「Chieko  baisho's  New  Playlist  2021」等々 どのアルバムもほとんど同じ曲が収録されていた。

 

倍賞さんは、昔から歌の上手い人だなとは思っていたが、じっくりと聴くことはなかったので、これらのいくつかのアルバムを聴いてみる。歌の種類は抒情歌、昔の歌謡曲唱歌、童謡が主だが、ポピュラー/スタンダードもある。コーラスグループ「フォレスタ」の演奏曲目と似ている。

 

私は、夕飯仕度の時、よく昔の歌謡曲で歌詞の入らないサックス演奏等をBGMとして聞いている。BGMは歌詞は耳障りで無い方が好ましい。

 

倍賞さんのアルバムをBGMとして聞いてみた。彼女の歌が入っていても何ら違和感がなく、適度に耳に入ってきてBGMとしても申し分なかった。

 

 

倍賞千恵子さんの略歴>(ウィキペディアからの抜粋)

倍賞千恵子さんは、1941年(昭和16年)東京下町で生まれ育った女優、歌手、声優である。妹は女優の倍賞美津子さん。

1957年松竹音楽舞踊学校に入学、1960年同校を首席で卒業し、松竹歌劇団(SKD)13期生として入団、周囲より逸材と注目される。

1961年松竹映画にスカウトされ、SKDを退団。

1963年山田洋次監督の「下町の太陽」に主演、以降山田作品に欠かせない庶民派女優として活躍する。同年、「下町の太陽」で歌手デビュー、第4回日本レコード大賞新人賞を受賞、同年よりNHK紅白歌合戦に4年連続出場する。1965年には「さよならはダンスの後に」をヒットさせた。

 

<映画の代表作>

男はつらいよ」(全50作)で渥美清演じる主人公車寅次郎の妹さくら役を務める

(1969年~2019年)

「下町の太陽」(1963年)

「家族」(1970年)

幸福の黄色いハンカチ」(1977年)

「遥かなる山の呼び声」(1980年)

「駅 STATION」(1981年)

植村直己物語」(1986年)

「キネマの天地」(1986年)

 

私は、倍賞千恵子さんといえば、映画の印象が強い。「男はつらいよ」はシリーズ全作品(48作)を4~5回は見た。この場面の次は、寅さんやさくらがどんな言葉を発するかほとんど覚えたくらいだ。

 

倍賞さんが、高倉健さんと共演した「幸福の黄色いハンカチ」「遥かなる山の呼び声」「駅 STATION]は、いずれも秀作だった。その中でも「駅 STASION]の名場面は忘れられない。

 

そのシーンにつては、丁度一年前の2020年10月16日にこのブログにアップした「時刻表旅 3」でも書いたので、そのまま転載する。

 

舞台は、北海道留萌本線終着、増毛駅前の小さな居酒屋、倍賞千恵子さんはそこの若い女主、時は大晦日の夜

「・・・店の客は健さん一人、彼女は暖簾をしまい、カウンターに二人並んで黙ってテレビの紅白を見ながら酒を呑む。外は雪。テレビからトリの八代亜紀が歌う「舟唄」が流れる・・・彼女は健さんの肩にそっと顔を傾ける・・・」

 

<歌手としての倍賞さん>

倍賞さんの歌唱は、非常に美しい耳に心地良いソプラノで、素直に身体の奥に入ってくる。クラシックのソプラノ歌手が歌う抒情歌等の日本の歌は、オペラの延長上にあるようで、バタ臭くてどこか馴染めない。その点倍賞さんの歌声は、日本人に好まれる普遍的で何度聴いても飽きない魅力がある。

 

倍賞さんは、透明感があって良く伸びるソプラノと、日本語の発生の美しさから、歌手としての評価も高く、藤山一郎さんも絶賛している。

 

さて、倍賞千恵子さんのアルバムの中から、7曲ほど紹介します。50曲位の中からの選曲には迷ったが、倍賞さんの声の美しさの際立ったものとか、倍賞さんの特徴が現れていると私が感じた曲を選びました。どれも、みな有名で聴いたことのある曲ばかりと思います。

倍賞さんの美声をお楽しみください

 

1. 忘れな草をあなたに

 

1963年 女性コーラスグループ「ヴォーチェ・アンジェリカ」がシングルをリリース。

1971年 倍賞さんと菅原洋一さんが競作でシングルリリースしてヒット、世に知られる。

  

作詞:木下 竜太郎  作曲:江口 浩司

 

 別れても 別れても 心の奥に

 いつまでも いつまでも

 おぼえておいて ほしいから

 しあわせ祈る ことばにかえて

 忘れな草を あなたに あなたに

  

 いつの世も いつの世も 別れる人と

 会う人の 会う人の

 さだめは常に あるものを

 ただ泣きぬれて 浜辺につんだ

  忘れな草を あなたに あなたに

 

 喜びの 喜びの 涙にくれて

 抱き合う 抱き合う

 その日がいつか くるように

 ふたりの愛の 思い出そえて

 忘れな草を あなたに あなたに

 


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2. さくら貝の歌

 

1939年(昭和14年)鈴木義光という青年(後の八洲秀章)が、病により18才の若さで亡くなった恋人への思いを短歌にし、それをモチーフに友人の土屋が詩を作り、八洲が作曲した。その後ほとんど世に知られなかったが、1949年山田耕筰が編曲して、NHKラジオ歌謡で放送されて人気となる。舞台は鎌倉由比ガ浜海岸。

 

作詞:土屋 花情  作曲:八洲 秀章

 

 美(うるわ)しき桜貝一つ

 去り行ける 君にささげん 

 この貝は 去年(こぞ)の浜辺に

 われ一人 ひろいし貝よ

 

 ほのぼのと うす紅染むるは

 わが燃ゆる さみし血潮よ

 はろばろと かよう香りは

 君恋うる 胸のさざなみ

 

 ああなれど 我が思いははかなく

 うつし世の なぎさに果てぬ

 


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3. あざみの歌

 

1949年(昭和24年)NHKラジオ歌謡で発表されて世に広まる。作曲は「さくら貝の歌」の八洲秀章、作詞は「下町の太陽」「さよならはダンスのあとに」を手掛けた横井弘、詩は横井が長野県霧ヶ峰八島ヶ原湿原を散策している時に作られた。

 

作詞:横井 弘   作曲八洲 秀章

 

 山には山の 愁(うれ)いあり

 海には海の 悲しみや

 ましてこころの 花ぞのに

 咲きしあざみの 花ならば

 

 高嶺の百合の それよりも

 秘めたる夢を ひとすじに

 くれない燃ゆる その姿

 あざみに深き わが想い

 

 いとしき花よ 汝(な)はあざみ

 こころの花よ 汝はあざみ

 さだめの径(みち)は 涯(は)てなくも

 かおれよせめて わが胸に

 

 


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4. 宵待草

 

生涯にわたり恋多き竹下夢二が、実ることなく終わったひと夏の恋を偲んで、この詩が作られた。多 忠亮(おおの ただすけ)によって曲が付けられ、1918年(大正7年)「セノオ楽譜」より出版され、急速に日本中に広がり、後々まで歌い継がれていった。

 

作詞:竹久 夢二  作曲:多 忠亮

 

 待てど暮らせど来ぬ人を

 宵待草のやるせなさ

 

 今宵は月もでぬさうな

 

 今宵は月もでぬそうな

 

 


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5  叱られて

 

1920年大正9年)少女雑誌「少女号」で発表された童謡・唱歌である。

「叱られて」の歌詞の意味については、様々に解釈されているが、親元から離れ、遠くの名家に奉公に出された子供の心境が歌われている。

 

作詞:清水 かつら  作曲:弘田 竜太郎

 

 叱られて 叱られて

 あの子は町まで お使いに

 この子は坊やを ねんねしな

 夕べさみしい 村はずれ

 こんときつねが なきゃせぬか

 

 叱られて 叱られて

 口には出さねど 眼になみだ

 二人のお里は あの山を

 越えてあなた(彼方)の 花の村

 ほんに花見は いつのこと

 

 


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6. 喫茶店の片隅で

 

1955年(昭和30年)に、発売された松島詩子さんが歌うシャンソン調歌謡曲がヒットし、1960年に再発売された。当時の若者が利用した喫茶店の雰囲気が良く出ている。

 

作詞:矢野 亮  作曲:中野 忠晴  元歌:松島詩子

 

 アカシヤ並木の黄昏は

 淡い灯がつく喫茶店

 いつもあなたと逢った日の

 小さな赤い椅子二つ

 モカの香りがにじんでた

 

 ふたり黙って向きあって

 聞いたショパンのセレナーデ※

 もれるピアノの音につれて

 つんでは崩しまたつんだ

 夢はいずこに消えたやら

 

 遠いあの日が忘られず

 ひとり来てみた喫茶店

 散った窓辺の紅バラが

 はるかにすぎた想い出を

 胸にしみじみ呼ぶこよい

 

※松島さんの元歌は「ノクターン」となっている。

 

 


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7. 新妻に捧げる歌

 

TBS系で1961年~1963年に放送された江利チエミさん主演のドラマ「咲子さんちょっと」の第二クールエンディング曲として使われ、1964年シングルカットして発売されヒットした。中村メイコ夫妻の作詞作曲で、神津さんは元々ひばりさん用に作ったとか、ひばりさんがメイコさん宅で自分の曲にしたいと言ったが、メイコさんが江利チエミさん用だからと断ったとか色々エピソードもあるようだ。

 

作詞:中村 メイコ  作曲:神津 善行  元歌:江利 チエミ

 

 しあわせを もとめて

 ふたりの こころは

 よりそい 結びあう

 愛のともしび

 悲しみを なぐさめ

 よろこびを わかちあい

 ふたりで歌う 愛のうた

 ララララ・・・・・ララララ・・・

 

 しあわせを 夢みて

 ふたりの こころは

 手をとり ふれあって

 愛のゆりかご

 悲しみは ひそやかに

 よろこびは おおらかに

 ふたりで歌う 愛のうた

 ララララ・・・・・ララララ・・・

 

 


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四国遍路 2

前々回(2021年9月28日アップ)の「四国遍路 1」の続きです。

 

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NHK趣味悠々2006年9月~11月「四国八十八ヶ所はじめてのお遍路」の掲載写真)

 

5. アクセス

打ち始め(札所を巡拝することを「打つ」という)の札所(お寺)については決まりが無く、どこから始めても良いらしいが、四国へのアクセスや打ち終った後の高野山へのお礼参りを考えると、一番霊山寺(りょうぜんじ)から始めるのが最善と思われる。

 

霊山寺は、徳島県北東部の鳴門市にあり、鉄路、空路、バス路で行くことができる。JRではJR高徳線の坂東駅から歩いて10分位であるが、近くに高速高松道の鳴門西というバス停があり、ここからは20分位歩けば、霊山寺に着ける。

 

乗り換えを考えると、高速バスが便利だ。私は一回目は名古屋の妹宅へ寄ってから出発したので、名古屋から徳島行の高速バスを利用し、鳴門北バス停で降り、JR鳴門線鳴門駅まで歩き、鳴門駅から坂東駅までJRで行った。(名古屋からのバスで鳴門西に停車するバスが無かった)

 

一回目の帰りは高野山へのお礼参りで、徳島港からフェリーで和歌山に向かった。四国を一周した後、船で徳島の眉山を眺めながら四国を後にするのも感慨深いものがあった。

逆に、へんろの前に高野山で旅の無事を祈ってから、船で四国入りをすると言う手もある。

 

私の二回目は行きも帰りも高速バスで、高速高松道の鳴門西バス停を利用た。

 

 

6. 宿

修行を目的とした「おへんろさん」や、体力のある若い学生さんの中には、野宿して回る「おへんろさん」もいるが、私は全て宿を利用した。

 

へんろ道は県庁所在地のような大きな街も通るが、大半は四国の田舎や山道なので、宿泊したい所に宿がないこともある。その場合は、宿のあるところまで、コースを伸ばすか、手前の宿でその日の歩行を打ち切らなくてはならない。

 

私の宿泊した宿は、民宿が一番多いが、その他、お寺の宿坊、ビジネスホテル、シティホテル、旅館、国民宿舎ユースホステルに泊まった。

 

民宿は泊まってみないとその良し悪しは分らないので、当たりはずれがあった。お寺の宿坊は清潔で設備もしっかりしていて安心できるが、宿泊できる寺は、88カ寺の内6カ寺のみである。

 

へんろ後のプラスαの旅行も含めて、一回目が52泊、二回目が53泊した。1回目の52泊について、設備(風呂、トイレ、清潔さ)、料理、サービス/思いやりについて独自の判断基準で数値化し、その値を宿泊料金で割って比較した。その結果、高知県香南市の民宿が1位となった。帰宅後その旨を手紙で連絡して、宿の主人に大変喜ばれた。

 

 

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(NHK趣味悠々2006年9月~11月「四国八十八ヶ所はじめてのお遍路」の掲載写真)

 

 

7. 四国4県人の気質

4県を歩いて、私が会った地元の人の印象(あくまで個人的な感想)

徳島県人:血液型で例えると、A型 皆さんとても親切で気配りもしてくれ、よそ者にもやさしく面倒見が良い。遍路標識も至る所にあり、懇切丁寧に指示してくれる。

 

高知県人:血液型で例えると、B型 言葉少なく粗削りな感じだが、根は優しい。感情に流されずドライなところもある。遍路標識は高知県に入ると、徳島県と比べ極端に少なくなり、指示もそっけないものが多い。一回目には高知県で2回道に迷った。こう書くと高知県人は冷たいと思われるかもしれないが、決してそうではない。べたべたともてなすことは苦手だが、へんろに対する理解や親切心は他県と同じだ。

 

愛媛県人:血液型で例えると A型 穏やかでまろやかな性格の人が多かった。おっとりとした美しい女性にも沢山出会えた。

 

香川県人:血液型で例えると O型 民宿のおかみさんは、大らかで面倒見の良い肝っ玉かあさんのような女性が多かった。

 

 

8. 四国の川

徳島県

吉野川: 通称四国三郎と呼ばれる国内有数の大河。へんろでこの川を渡るのは、河口に近い下流なので、川幅が広い。11番藤井寺へ向かう時には、川の中央に広い中洲があるため、吉野川左岸-中洲、中洲-吉野川右岸と二つの橋を渡る。中洲は広大で一面に畑が耕作されている。

 

・鮎喰(あくい)川:12番焼山寺から13番大日寺へは、この川に沿って下る。名前からも鮎が沢山いそうな清流

 

牟岐(むぎ)川:へんろ道は河口近くの橋を渡るのであるが、下流なのに渓流のような清々しい川

 

・海部(かいふ)川:徳島県南端の堂々とした大河

 

高知県

高知県の川は、小さな川も大きな川も、みんな水がとてもきれいで、川底まで透きとおっている。色も青や薄い緑、まさに清流だ。

 

・伊尾木川:室戸岬を回って、奈半利川、安田川に続いて現れる本格的な川だ。この川を渡ると安芸市市街に入る。

 

国分寺川:29番土佐国分寺の近くを流れる川。周囲は広大な農地

 

・二淀川:宮尾登美子の小説の題名にもなった高知市土佐市の間を流れる名河川。橋を渡るのに11分を要す大河なのに、水青く美しい気持の良い川である。

 

四万十川:へんろがこの川を渡るのは、河口近くの四万十大橋、渡るのに13分。仁淀川同様大河なのに清流。

 

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     (四万十大橋から見た四万十川 2017年11月12日撮影)

 

愛媛県

肱川ひじかわ):43番明石寺へはこの川を左に見みながら進む。愛媛県大洲の町はこの川に囲まれ、市民の憩いの場所でもある。初冬の朝、大洲盆地で発生した霧が肘川を下り、霧を伴った冷たい強風が河口を吹き抜ける「肱川嵐」は、伍代夏子さんの歌にもなった。

 

香川県

この時期、香川県の大きな川は、水がほとんど涸れており、水も清流ではなく、川の魅力はなかった。

 

 

9. トンネル

昔、山越えをしていたようなところに、トンネルが掘られ、ショートパスできるようになったへんろ道がかなりたくさんある。足摺岬から宿毛市の39番延光寺へ行く途中、一回目に海岸線をくねくね回り込んで進んだ道に、トンネルができ、二回目の時は30分以上も時間短縮できた。

 

トンネル内は平地なので、歩行スピードは上がるが、危険も多い。トンネルは、基本的に自動車用に作られているので、車道と分離する歩道がないトンネルもある。こんな時は非常に怖い。大型のダンプなどが大音響を轟かせて驀進(ばくしん)して来ようものなら、身の縮む思いだ。自分の存在を車の運転手に知らせるのに、蛍光タスキや懐中電灯は欠かせない。

 

一直線のトンネルは、出口が小さく丸い灯りとなっているが、これが意外と遠い。歩いても歩いても出口が縮まらない。長いトンネルは通過するのに30分位要した。自動車がトンネルに進入すると、小さな車でもトンネル内は反響してゴーっと凄い音がし、車がトンネルを抜けるまで続く。

 

愛媛県宇和島手前の国道56号松尾トンネルは、全長1710m、車の通行量が多く、歩くには排気ガスが心配されたが、隣に新しい高速道のトンネルができ、車が分散され、人も通れるようになった。

 

 

10. 接待文化

四国には、へんろをもてなす文化が存在する。四国の人々は弘法太子を慕う心から、太子とともに歩いているおへんろ(同行二人)に、太子の姿を重ね、お布施をしたり、接待をすることで功徳を積むと考える。自分の行けない巡礼をおへんろを接待することで、自分も巡礼に加わると考える。

 

接待する四国の人は「功徳を積ませてもらってありがとうございます」という気持ちで接待しているので。接待を受けたおへんろさんが「ありがとうございます。」と感謝しても「こちらこそ」という感じだ。こうして地元の人とおへんろさんが、太子さんを通じて繋がる。

 

私が始めて接待を受けたのは、徳島県13番藤井寺へ向かう途中、吉野川の阿波中央橋を渡りきったところで、おばあちゃんが寄ってきて「これでジュースでも買いな」と言って500円をくれた。初めてだったので大いに感激した。

 

<以下私の接待経験>

 

徳島県20番鶴林寺と21番太龍寺の中間の遍路休憩所に、おへんろ用に段ボール一箱のみかんが置いてあり、ジュース代わりに沢山頂戴した。

 

愛媛県大洲の町から少し離れた住宅地で、おばあちゃんに呼び止められ、おばあちゃんの家まで案内され、そこでいなり寿司を箱詰めでいただいた。

 

松山市の46番浄瑠璃寺へ向かう途中、接待小屋があり、おにぎり、漬物、お茶をごちそうになった。

 

松山市53番円明寺から今治市54番延命寺へ行く途中、主婦と思しき方に道を尋ねたら、丁寧に教えてくれ、その後歩いていたら、その主婦が自転車で追いかけてきて、みかんを一袋くれた。

 

高松市85番八栗寺への急な坂道を登っていると、途中民家の庭先で和菓子とお茶の接待を受けた。 

 

                   ー続くー

9月28日~10月5日

今週も、色々なことがあった。

 

岸田文雄さんが、9月29日の自民党総裁選に勝利し、10月4日の国会で100代目の総理大臣に選出された。岸田さんは、一般の社会であれば周りからも信頼される「良い人」で通るであろうが、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する永田町で、海千山千を相手に、今後どこまで能力を発揮できるか、お手並み拝見である。

 

それから、国内では、あれだけ猛威を振るっていた新型コロナデルタ株による新規感染者の数が急激に減少し、緊急事態宣言などの規制が9月30日をもって解除された。

 

この急激な減少の理由は、ワクチン接種が進んだこととか、飲食店への規制の効果が徐々に表れてきたとか考えられるが、宣言中の人出も減っておらず、専門家もよく分からないらしい。

 

コロナウィルスが、戦略として自ら感染力を抑え、変移して次なる感染爆発に備えているのであって、決して人類による感染対策が功を奏したのではないという学者さんもいた。

 

アメリカではニューヨークのブロードウェイがやっと再開にこぎつけたのに、ワクチン接種後の感染(ブレークスルー感染)が拡大して休演になったというニュースも入ってきた。

 

まだまだ油断は大敵だが、国内は当面新規感染者が減り、宣言も解除されて、ここ数ヶ月に比べると気分もだいぶ晴れてきた。

 

 

9月28日(火)

名古屋の妹から、家を整理していたら出てきたという、亡き母が生前収集していたコインや旧札が送られてきた。

 

コインと言っても、そんなに古いものではなく、昭和23年~50年までの1円、5円、10円、50円、100円の現行硬貨と昭和39年のオリンピック記念100円、1000円硬貨である。専用の「年号別アルバム」に年号ごとに納められていた。それと、板垣退助の100円札、岩倉具視500円札伊藤博文聖徳太子ではない)の1000円札である。(紙幣はかなりの枚数がある。)

 

母は他界して18年になるので、これらを収集していたのは、2~30年以上前のことだろうが、私は知らなかった。私はコレクションには興味がないので、これらにどれほどの価値があるものなのかは、全く分からない。母がコツコツと集めたものと考えると、直ちに処分する気にはなれない。さてどうしたものか。

 

10月1日(金)

大型の台風16号が房総沖を北上した。当地は暴風域には入らず、10mm/h前後の雨が降り続いたものの、強い雨風にはならなかった。

 

この日はリハビリセンターの日で、利用者は、皆さん車で送迎されるが、私は近いのでいつものように徒歩で往復した。5分程の短距離ではあるが、足元がビショビショに濡れた。

 

言葉の訓練を担当して下さっている言語聴覚士の Iさんは、先月も書いたが、山に嵌(は)まっていて、9月末の連休に南アルプス北岳へ日帰りで行ってきたと言う。北岳へ日帰りとは私が山に行っていた頃には、とても信じられないことだ。

 

それから、もう一つビックリ仰天した。それは、Iさんは独身のキャリアウーマンと思っていたら、なんと20才の大学生の母親だったのだ。家族の世話をしながら、よく頻繁に山に行けるものだと感心した。それと今の女性は皆さん年齢よりとても若く見える。

 

10月2日(土)

台風が去って、朝から晴天となった。ここ数年台風が過ぎ去っても、その翌日晴れたという記憶がない。久しぶりに見る台風一過の気持の良い秋晴れだ。雲一つない紺碧の空を見上げながら、コロナもこのまま収束してくれたら良いなと思った。

 

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この日、息子の少し早い誕生会をやることとなった。行きつけの中華料理屋さんに予約の電話をする。お店の人が言うには、緊急事態宣言は解除になったが、営業は20:30まで、お酒の提供は19:30までとのこと。

 

夜型の息子にとって、この時間帯では満足できないので、テイクアウトで料理を運び自宅ですることとなった。18:30に料理を取りに行くと、お店は満席で客の皆さんは、やっと自粛から解放されたというような顔つきで飲食なさっていた。

 

誕生会と言っても二人だけのささやかなものだ。彼と相対して飲むのは久しぶりで、ビール好きの息子のために大量のビールを用意した。

 

 

10月3日(日)

緊急事態宣言が解除され、テニス、卓球も再開されるようになった。この日は、Hサークルの卓球開催日だ。

 

2か月ぶりに9名の仲間が集まる。「御無沙汰です」「お久しぶりです」「お元気でしたか?」の挨拶をしながら、再び卓球できる喜びがみんなの顔に描いてある。

 

練習会が始まり、新しくラバーを貼りかえたラケットを、今回初めて使用する。弾性が増したのか卓球台を超えるミスが多かった。プレイに汗を流す。やはり、自宅で一人室内運動をしているよりずっと楽しい。

 

私と同い年で、テニスも同じサークルに入っている友人が今日は欠席だった。彼が参加した時は、練習会の後、近所のMACでお茶するのが恒例となっているのだが、それが叶わず雑談もできず残念だった。

 

10月5日(火)

この日は、SE卓球サークルとKテニスサークルの練習時間が重なってしまい、先に参加を伝えてあった卓球へ行くことにする。火曜日は7月までは、テニスが午前で卓球が午後と重ならなくて、両方参加できたが、これからはテニスも午後になることが多そうで、その時はどちらかを欠席せねばならない。

 

SEサークルは、上手い人が多い。試合出場を目的とする別のサークルにも入っている女性とか卓球経験年数が長く、技術がとても秀でている会員が多い。

 

SEサークルの練習会は、時間の半分をゲームに当てているので、楽しい。ゲームはダブルス、組み合わせは、全員をランダム表で決める。同じペアで、同じ対戦相手と2セット戦う。それが終わるとランダム表で2回目のペア、対戦相手を決めて戦う。1日の練習会で10回以上ゲームができる。ゲーム中は皆興奮し、ワイワイ笑い声が絶えない。

 

卓球技術の上手い下手を問わず全員が楽しめるのが良い。この日ラケットのラバーを新しくしたせいか、いつもよりゲームの成績がよかった。

 

 

今週はあと1回、7日に宣言解除後初のSHサークルのテニス練習会がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

四国遍路  1

私は、7年前(2014年)と4年前(2017年)の二回、四国遍路を体験した。私には特別な宗教心があるわけでなく、一回目は、四国一周面白そう、チャレンジするにはやりがいがありそうとスポーツ感覚で出発した。

 

一周してその達成感に感動し、四国の魅力、遍路の奥深さを知ることとなり、体力のあるうちにと、二回目も行ってきた。お恥ずかしい話だが、二周しても煩悩は全く消えておらず遍路前の俗人のままである。できればもう一度チャレンジしてみたいと考えているが、コロナ禍と加齢による体力低下で当面は難しそうだ。

 

四国遍路を成し遂げるには、三つの条件が同時に揃わなくてはできない。

 

1. 体力:まずは、やはり体力だ。四国一周の遍路道は、1200㎞とも1400㎞とも言われており、一日30~40㎞毎日歩くことになるので、それなりの体力気力が必要となる。

 

2. 時間:私の場合、この条件はクリアできるが、過去、四国を一周するのに台風による停滞を含めて、45~46日要した。それに高野山へのお礼参りや、その後の旅のプラスαを考えると、2ヶ月はキープしたい。

 

3. お金:旅行期間が長いので、それに見合った費用が求められる。

 

当面3回目を決行する予定はないが、ブログのネタが切れ気味なので、過去の遍路経験を記すことにします。

 

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(NHK趣味悠々2006年9月~11月 「四国八十八ヶ所はじめてのお遍路」の掲載写真)

 

 

1. 四国遍路とは

弘法大師空海が、庶民救済の方便(てだて)として、四国の地に「路を遍く(みちをあまねく)」循環式霊場を施したのが起源とされる。四国の八十八カ寺(霊場)を老若男女が杖を頼りに参詣するようになった。

杖は弘法大師の化身とも言われ、一人で旅しても常に弘法大師と一緒で、大師に見守られているとされる。これを「同行二人」という。

 

 

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 (へんろみち保存協力会編 四国遍路ひとり歩き同行二人「地図編」より)

 

霊場は一番(霊山寺)から八十八番(大窪寺)までの八十八か所と、それとは別に別格の二十寺があり、何回も遍路しているベテランとなると、別格も含めて、百八カ寺を巡っている。

 

巡拝の仕方としては、一番から八十八番へ時計回りに巡る「順打ち」と逆回りに巡る「逆打ち」がある。遍路道の道路標識や案内図は、順打ちに沿って表示されているので、「逆打ち」は、「順打ち」に比べ困難を伴う。よって「逆打ち」は、「順打ち」の3回相当の功徳があると言われている。私も3回目は、「逆打ち」も視野に検討しようと思っている。

 

区間を一回で打ち上げるのを「通し打ち」、適当区間に区切って打つのを「区切り打ち」という。私は時間に余裕があったので、二回とも「通し打ち」をしたが、現役で働いている人は、長期休暇の取得が難しいので、「区切り打ち」が多い。

 

2. 遍路の主な持ち物

・金剛杖   :弘法大師の化身とされる大切なものであるが、私はそんな大切な杖を                                                     

        道中二回も置き忘れたことがある。1時間以上かけて引き返した。

        四国を一周すると、杖は先端が摩滅して10~15㎝ほど短くなる。

 

・白衣    :私は、一回目の半月くらいは、着て歩いていたが、暑かったりして

        その後は歩行時には着なくなった。宿坊に泊まって朝のお勤めの時に

        は着るようにした。                          

     

 

・菅笠    :日除け、雨具となるので欠かせないが、これが結構嵩張る。大きな

        笠だとザックに引っ掛かってしまい、不可。

 

・さんや袋  :地図、納経帳、収め札、ろうそく、線香を入れる参拝用サイドバック

        お寺の本堂、太子堂は、小高い丘の上や長い階段の上にあることが多    

        く、こんな時は重いザックを下に置いて、さんや袋のみ持参して参拝   

        した。

 

 

3. 遍路の一日(私の場合)

朝 4:30にスマホの目覚ましをかけるのだが、いつもそれより早く3:30前後、早い時には2:30頃起床する。

 

起きて前日の記録整理、当日の工程、スケジュール、地図の確認をして、ザックのパッキング、ザックの中身は前日全てを床に並べて置く。当日の天気やスケジュールに合わせて、行動中取りやすいようにパックする。

 

行動着に着替え、洗面して、ザック、菅笠、さんや袋、杖を食後直ぐに出発うにきるように玄関に置いておく。(私はせっかちなので、大抵宿泊者の中で一番に出発する。)

 

宿の朝食は、目いっぱい食べる。朝食は宿にもよるが、6:00~7:30

 

ビジネスホテル等で、朝食が出ないときは、夜明け前の4:30~5:00ころ、まだ暗い中を出発する。(早朝出発は、満天の星を見ながらとか、月明かりの中の歩行とか気持の良いことが多い。距離も稼げる)

 

7:00前後に出発、大抵歩き始めは、快調な歩行が多い。遍路を始めた頃は、一時間に一回くらい休憩していたが、お寺の参拝以外に休憩はほとんどとらなくなった。5~6時間とノンストップで歩くようになった。

 

昼食は始めの頃は、地元のお店に寄って摂っていたが、かなりの時間のロスになるので、コンビニのおにぎりやサンドウィッチで済ますことが多くなった。(讃岐のうどんやは例外)

 

お寺では、まず山門の前で一礼して境内へ入り、手水場(ちょうずば)で手を清め、本堂に向かう。ロウソクと線香に火をつけ、収め札とさい銭を収める。その後般若心境を読経する。(正式には、般若心経を含めて、六つのお経を唱えるらしいが、私は般若心経しか知らないので、その他はカット)

 

本堂が終わったら、大師堂でも同じことを繰り返す。その後、納経所で朱印を頂き、山門を出る時も一礼して次の札所に向かう。

 

始めの頃はやり方もぎこちなく、時間ばかりかかって一つの寺で一時間以上要したが、二回目の遍路では20~30分位に短縮できた。

 

札所(お寺)は、県庁所在地のような大きな町では、比較的固まって存在するので、効率よく参拝できる。しかし23番(徳島県日和佐薬王寺)と24番(室戸岬最御崎寺)とか、37番(高知県四万十町岩本寺)と38番(足摺岬金剛福寺)の間ように、距離が長く二泊しないと次のお寺に到着できないこともあるので、三日以上参拝せずに、歩き通すこともある。

 

宿へは基本16:00ころまでには、到着するようにしている。(一回目、二回目とも10月~12月に巡ったので、日に日に陽が短くなった。)

 

宿では着替えて洗濯、その間に、当日の行動記録作成、翌日のタイムスケジュール作成、宿の計画手配などを行って、後は風呂へ入って夕食(ビールは唯一の楽しみ)を食べて、20:00前には就寝。

 

 

4. 遍路仲間

普通、歩いている時は一日中一人で歩くのが原則で、連れ立ったり、数人で歩くということはしない。しかし長く歩いていると、札所(お寺)や宿で何度も顔をあわせ、顔見知りになるお遍路さんもいる。彼らは同じ目的を遂行している同志なので、お互い敬意を払って干渉しないよう行動する。出身地はお互い披露するが、名前は明かさない。

一期一会の付き合いだ。

 

したがって私のメモには、彼らのことを「横浜へんろ」「札幌へんろ」「鹿児島へんろ」と記録してある。

 

一回目の遍路の時、20番鶴林寺徳島県)麓の宿で一緒になった名古屋へんろが、その後も宿を別々に取っているにもかかわらず、同じになったり、お寺で偶然会ったりして、結局、愛媛県久万高原町の宿まで同宿となることが多かった。彼は年齢も近く、私の地元名古屋であることもあって、ウマがあい宿ではよく食事を共にした。

 

朝宿を出る時、これが最後と「じゃあこれで、お元気で!」と言って別々に出発するのであるが、数日後又同宿となり、「腐れ縁だな」と二人で笑った。その彼を見かけたのも44番大宝寺が最後となった。

 

二回目の遍路では、37番岩本寺近くで、休憩に立ち寄ったお茶所で一緒になった5~60代の女性が、私と同時に出発して歩き始めたら、その歩く姿は凄く綺麗で、スピードも早い。みるみる私から遠ざかり、一本道の先で黒い点になった。元陸上の選手ではなかろうかと思った。

 

39番延光寺高知県宿毛市)から53番円明寺松山市)まで一緒になった60才の横浜へんろの男性は、凄く律儀でトンネルでショートパスできても、遍路山道を忠実に登る人だ。お酒も大好きだが遍路中は断酒している。私のようないい加減な人間には頭が下がる。

 

66番雲辺寺麓の宿(徳島県三好市池田町)で出会った80才の札幌へんろは、歩き遍路が、13回目というベテラン。今回も別格20寺も含め108寺を回っている。80才にはとても見えない温厚なオジイチャンだった。

 

                  ー続くー

 

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「四国遍路」については、非定期で掲載しようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

小さい秋みつけた

秋の彼岸になった。お墓参りは、年5回(正月、春秋の彼岸、命日、お盆)以上行っているが、いつも一人なので、お参りしてそのまま帰ることが多い。

 

今回は、コロナ禍でずっと外出、ドライブを自粛ていたので、秋の気配を感じたくて、墓参りをしながら霊園の近くの田舎っぽい集落へ車で行ってみた。

 

まだ、緊急事態宣言が発令中であるが、一人で車に乗って、第三者とは会わず、会話もしなければ、許されるだろうとの判断である。

 

まず、霊園手前の主要道から外れた脇道をゆっくり走っていると、地元の園芸愛好家が手入れしている道端の草花に目が止まった。

 

千日紅(グーグルレンズ検索)

 

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日日草(グーグルレンズ検索)

 

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マツバボタン(グーグルレンズ検索)

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枯れたヒマワリとケイトウ

 

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ここから霊園へは、県央を流れる県内有数の大河を渡って行く。

 

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霊園墓地

 

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墓参りを済ませ、霊園近くの集落に行ってみる。この集落は自宅から歩いて3.5時間くらいのところにあって、7年前の今頃、徒歩で訪れたことがある。その時あちこちに彼岸花が咲いていて、長閑(のどか)で気持の良いところだったとの印象だった。

 

 

農家の畑には、季節外れのヒマワリが咲いていた。(遠景に彼岸花

 

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別の畑のにはサルビア・ガラチニカ(グーグルレンズ検索)

 

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さらに集落を巡っていると、萩の木を発見

 

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前回のブログでも書いたが、金木犀はここでも花を開き、甘い香りを辺り一面に漂わせていた。

 

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この集落の一番の見ごろはやはり、彼岸花だろう。

 

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帰る時、コスモスとススキが風にわずかに揺れていた。これが「小さい秋みつけた」なのかなと思った。

 

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