旅の計画

年が明けて、今年の目標の一つに旅行を掲げておられる方も多いと思う。

私も若いころから「旅」は好きで、始めて訪れる土地の風景や人々に接することは、自分にとって非常に良い刺激となり、私の好奇心を満たしてくれた。

 

今年も年頭に当たり、今年の旅は何処にしようかと考えた。しかし保留となっている案件はあるものの、元来が優柔不断の私はその旅を今年実行するかどうかは決めかねている。それ以外の別の場所は、今具体的に思い浮かばない。

 

今回は、これまでに検討はしたが実行していない旅について綴ります。

 

 

1⃣ ユーラシア大陸横断バス旅行

旅は、行きたい所を決めて、ルート、交通手段、宿の手配等全て自分でやることが基本と考えていたので、旅行会社の観光団体旅行には興味が無かった。

 

しかし、10年程前、近畿日本ツーリストが企画する「ユーラシア大陸バス旅行」というものがあると知って、興味が湧いて資料を取り寄せた。

 

これは、中国の西安(昔の長安)からシルクロードを通って中央アジアペルシャイスタンブールへ抜け、ここからヨーロッパに入りローマを経由して、ユーラシア大陸最果ての地ポルトガルロカ岬を目指すバス旅行だ。

 

全長15,000㎞を約2ヶ月かけて走破するバス旅行だ。費用は350万円。

 

シルクロード敦煌は中学時代から憧れの地でもあり、生涯に一度は訪れてみたい所であった。本当は沢木耕太郎の「深夜特急(香港からイギリスのロンドンまで路線バスを乗り継いで旅した記録)」のように、全部自分で出来れば理想ではあるが、大陸横断ともなると、年齢的にも体力的にも旅行会社の助けを借りるのも仕方ないか思った。

 

旅行会社のバス旅行と言っても、連日のバス移動というかなり肉体的にもハードな内容で、食事や中東の通過地点の治安等にも問題があるようだった。それと高額な旅行代金は、自分にとってこの旅に賭ける思いに値するのか測りかねた。

 

結局この旅は、旅行会社の資料を眺めただけで終わった。その後、このバスツアーは募集を中止しているようだ。

 

 

2⃣ 三回目の四国遍路旅

国内旅行では、歩いての四国遍路旅を二回経験した。二回目の記録については、「へんろ日記」として、非定期でこのブログに掲載させてもらった。(2021年10月20日~2022年12月11日)

 

二回とも自分の中では貴重な体験ができたと満足している。そして現在、もう一度三回目(逆回り)ができないか逡巡している。

 

歩き遍路で回るには、①時間 ②金 ③体力の三つが揃わないとできない。①は十分あり②は何とかなるが、問題は③の体力だ。一周を何分割かに分ける「区切り打ち」なら少しは難度も減るだろうが、行くからには「通し」で一回で回りたい。

 

ニ回目の遍路の時、徳島県の宿で、札幌から来たお遍路さんと同宿し夕食を共にした。彼は、その時が遍路10回目で、その日は満80才の誕生日だと言った。その人は外見では体付きが頑健そうには見えず、むしろ華奢な感じの「普通のお爺ちゃん」だった。

 

「札幌のお遍路さんを目標に、頑張ってみようかどうしようか」とか、「それには歩きのトレーニングが必要だな」とか「今務めているH卓球の代表を、留守中誰に頼もうか」と逡巡は続く。

 

 

3⃣ JR各駅停車旅/北海道牧場トレッキンング

この旅は、2018年に計画したものである。

JRの「北海道東日本パス」という「青春18きっぷ」に似た切符を使用して、自宅から各駅停車の列車を使って北海道の根室まで行き、その先は道東の牧場を歩いて摩周湖を目指し網走へ行き、網走からは、飛行機ではなく鉄道を利用して帰ってくるというものだ。

 

隠れ鉄ちゃん(鉄道オタク)でもある私の「乗り鉄」と「道東トレッキング」という私の好みを兼ね備えたプランだった。

 

2018年9月末に出発する予定で、準備万端整えた9月6日に「北海道胆振地震」が発生した。私が乗る予定のJR各線の多くが不通となり、この年の出発は断念した。

 

翌2019年は、卓球サークルの代表を務めていて長期休暇は取れず、翌2020年からはコロナ禍で実行できなかった。

 

この旅は計画しただけで、日の目を見ないものになっていた。列車時刻や工程もかなり細かく検討していたので、このブログに全て創作でのエア旅行(仮想旅行)を「時刻表旅1~4」と題して掲載させてもらった。(2020年9月23日~10月23日)

 

仮想の紀行文を書き終わると、何だかその地を実際に旅して来たかのような錯覚に陥った。留萌や根室の街並み、富良野線花咲線の沿線風景が頭に浮かび、増毛の「タコザンギ(たこの唐揚げ)」は食べたこと無いのに、舌に残っているような感覚だ。

 

コロナも規制が解除され、今年は実行しようと思えば叶うであろうが、計画から6年もたったからか、どういう訳か行きたいと言う情熱というかモチベーションが高まらない。

 

この旅についても逡巡している。

 

 

大きな旅となると、旅行前の心構えは確たるものが必要だ。今のところ、そのようなものは、心の中で熟成されていないので、今年は、1~2泊の小さな旅から計画してみようと思う。

 

 

 

令和6年正月

 

       写真ACより   らなんらなん さんの作品

 

 

明けましておめでとうございます!

今年最初のブログです。本年も、お手すきの折にでもお立ち寄り頂ければ幸いです。 よろしくお願い致します。

 

さて今年は年明け早々、元日の「能登半島地震」二日の「「羽田空港での飛行機衝突」と大きな事故が重なり、正月気分も吹っ飛んでしまい、今年は波乱に富んだ一年が予感されました。気を引き締めて一年を乗り越えたいと思います。

 

昨年末から、年明け最初の一週間を綴ります。

 

12月25日~31日

毎度のことながら、昨年末の最終一週間は「怒涛の一周間」で、大掃除正月準備に邁進した。昨年末も「もう少し早く手をつけていたら」と毎年同じことを後悔している。

 

一人で黙々と室内の汚れ落とし作業をしていると、夢と同じように過去の色々なことが、頭の中を駆け巡る。

 

古い昔の友人のことを思いだし、「あの時二人でこんなことをしたな、こんな話をしたな、彼は今どうしているかな」とか、その他当時の色々な人の顔が走馬灯のように思い浮かぶ。

 

ふと幼少時に母と二人で食事をしていた時のことも思い出した。白菜の漬物の葉をご飯に巻いて「海苔巻みたいだ」と言ったこととか、私が焼き鮭の皮を残そうとすると母は「焼鮭の皮は大黒様が『小判をあげるから、譲っておくれ』って言ったんだよ」と言ったのに対して「ボクなら小判を譲ってもらう」と言った他愛もない会話を思い出したりした。

 

晦日、午前中に買い残した分の買い物をし、午後、酢蓮、里芋煮、高野豆腐の煮ものを作り、買ってきたお節料理を重箱に詰めた。これが私には苦手で、毎年時間がかかる。

 

年越しそばを作って、18時頃やっと一段落がついて夕食とする。余り物のお節を肴に今年最後の晩酌だ。「お疲れさまでした!」と自分を労う。

 

紅白は今年も森山愛子が出場できなかったので関心がなかった。最近You tubeで見た セーラー服姿の「新しい学校のリーダーズ」が歌う「オトナブルー」が気になった。このグループのダンスは首を横に平行移動するもので、歌詞も大人の男性を挑発する刺激的なものだ。山口百恵の「ひと夏の経験」を想起し興味を持った。

 

このグループが今年の紅白の一番最初に出るという。紅白の開会と「オトナブルー」を見て、その後はやはりつまらなくてチャンネルを変える。結局今年もEテレNHK交響楽団「第九」を見て寝た。

 

1月1日(月)

2024年は、穏やかな快晴で明けた。例年は元日に年始挨拶に来ている娘家族が今年は明日の2日となったので、午前中に墓参りに行く。霊園には50人程が墓前に花を供えて新年の参拝をしている。青空の下、広々とした霊園は凛として美しく気持ち良かった。この一年健康に努めることを墓前に誓う。

 

帰宅して届いた年賀状に目を通す。添え書きには、初孫の誕生とか子供が今年結婚するといっためでたいものもあったが、腰痛で歩くこともままならないというお気の毒な賀状もあった。

 

友人から初LINEメールが届いていた。年始の挨拶と私の誕生祝が書かれてあって嬉しい。返信をしてしばらくすると、別の友人からも年始の挨拶メールが届く。こちらは、私の方から連絡しようと思っていた相手だったので、暮れや元日の様子をメールでやりとりする。

 

テニス、卓球サークルのグループLINEが入信していて、メンバーの様々な年始スタンプやカラフルな賀状メールに溢れていた。私のLINEはスタンプを使わない地味なものだが、グループLINEは彩(いろどり)鮮やかで賑やかだ。

 

「今年は穏やかなお正月だね」とメールを打った後の16時頃、能登半島震源とする地震の規模M7.6の大きな地震が発生した。テレビでは輪島の火事も放映され、東日本大震災が思い起こされ、正月の目出度いムードが、かき消されてしまった。

 

1月2日(火)

昨日の晴天が嘘のように、曇りから雨となる。9:30に娘家族5人が年始に来訪した。孫たちに会うのは一年振りだ。中2、小4、小2の三姉妹はこの一年でひとまわり大きくなったようだ。

 

彼女らの昨年の報告によると、長女は生徒会副会長や野球部のマネージャーを務め、次女はダンスでセンターを張り、昨年から始めた空手でも子供大会で優勝したとか、三女はそろばん、水泳、空手に励んでいると言う。しばらく会わぬうちに子供たちはどんどん逞しくなっている。

 

冬休みになって、両親が共働きなので、長女が下の子供たちに弁当を作っているという。その弁当の写真を見たら、カラフルで美味しそうな立派なもので感心し、NHKの「サラメシ」に投稿したらとアドバイスする。

 

やはり孫たちは可愛いものだ。このままスクスクと成長してくれることを切に願っている。

 

一家は〆のすき焼きを鱈腹食べて帰って行った。昼は娘家族の接待にこれ努めたので、夜は改めて息子と二人の新年会を祝った。

 

1月3日(水)

年末年始は、ほとんどテレビやビデオ録画を見ていなかった。今日は時間ができたので、CS放送の「僕の姉ちゃん」一挙放送(1話~10話、1話30分)を4話まで見た。(5話以降は1月5日に見た)

 

この作品は、益田ミリイラストレーター、漫画家、エッセイスト)がマガジンハウスのち幻冬舎文庫に発表したものが原作である。主演は黒木華が姉を演じ、ユーモラスで辛辣な姉と純朴で真っすぐな弟が一軒家で二人暮らししている日常を描いたものだ。

 

Z世代の新人サラリーマンの弟が、仕事や恋愛で上手くいかなくて、家で愚痴ったりぼやいたりすると、独身でアラサーの姉は、手厳しくも愛情をこめて弟にコメントをする。姉の言葉は蘊蓄(うんちく)に富んでおり、独身OLの本音も吐露していて面白かった。

 

1月4日(木)

正月三が日が明けたこの日の午前中に、リハビリでお世話になっているケアマネージャーUさんの面談があった。Uさんからは月一くらいに、健康状態を尋ねる電話があるが、今日は我が家へ来ての訪問面接だ。

 

この一年間の生活の変化、推移などを訊かれる。まだボーっとしたり、若干のフラツキはあるが、ほとんど健常者の生活をしているので、介護保険を適用したリハビリ施設に通っていることには心苦しさも感じると正直に話す。

 

Uさんは、冬場に急増する入浴時のヒートショック、感染症の予防、免疫力を高める生活習慣等について説明をして帰って行った。

 

1月5日(金)

今年最初のリハビリ施設に行ってきた。スタッフや利用者に新年の挨拶をして、いつものストレッチからのメニューをこなした。走行マシンでは大量の汗を流す。

 

<施設の職員から聞いた話>

・言語の先生は、元日に富士山本栖湖からのダイヤモンド富士を見に行った。本栖湖からも見られるが、山女の先生は近くの山に登ってその頂上から見た。本栖湖で待ち受けていた人々は、丁度その時刻に雲に遮られて見ることができなかったという。「山に登って正解だった」と先生は喜んでいた。

 

・スタッフのSさんは、年末の29日、仕事が終わってから車で松本の実家に帰省した。正月の3日まで滞在したので、久し振りにゆっくりできた。近くのスキー場で子供(小1と4才)を遊ばせたり、諏訪湖へ行ってワカサギ釣りをしたが、一人4000円払って一匹も釣れなかった。行きも帰りも高速は渋滞しなくて助かった。

 

施設から帰って直ぐに風呂に入る。明るいうちに入る風呂もいいものだ。

 

1月6日(土)

午前中に今年になって初めてのスーパー買い出しに行く。正月用に買い置きしたものが、まだたくさん残っていて、買い物もいつもの半分くらいで済んだ。

 

午後は今年最初のH卓球だ。会場に行くとまだ二人しか来ていない。開始時間になっても集まったのは私を含めて三人だ。三人の練習となると非常に効率が悪い。Oさんは、家の家事が沢山残っているからと言って帰ってしまった。

 

結局私とKさんの二人で練習することになった。二人だと練習内容が非常に密になり、運動量も増える。二時間みっちり練習でき、Kさんも満足したようだ。

 

1月7日(日)

正月飾りを取り外し、鏡開きには早いが、供えた鏡餅を下す。正月飾りは「どんど焼き」用に地元の神社に持って行く。今年の初詣はまだだったので、ここで済ませた。

 

明日から又、いつもの日常が始まる。

 

 

令和5年最後のブログ

師走に入ってからの本ブログの書き出しは、毎回同じような文章で気が引けるが、今年の暮れも押し迫った。

 

街はクリスマスや歳末の買い物客で賑わい、夜になるとイルミネーションが点灯し、今年から解禁された忘年会で盛り場の人出も増えているようだ。インバウンド客も増大し、コロナ禍の3年を取り戻すように暮れの街は活況を呈している。

 

平和な日本で私たちが安穏に暮らしている中で世界に目を向けると、ウクライナパレスチナガザの人々が塗炭の苦しみを味わっている。ニュースを見ながら「何とか和平の兆しが訪れないものか」ともどかしくやるせない思いに駆られる。

 

12月22日は冬至だ。一年の節目の日で、この日から日足が少しづつ伸びていく。気候は「冬中冬始め」の冬至を過ぎる頃から益々寒くなるが、これから昼が長くなるということは、気分的にも明るく楽しい感じがする。

 

以下に、慌ただしい年の瀬に感じたことを綴って、今年最後のブログとしたい。

 

1⃣ 触覚

歩いて郵便局へ行った時、靴の中に砂利が入ったようで、足の裏に当たって痛かった。立ち止まって靴を脱ぎ中の異物を見ると、砂のような小さな粒があった。もっと大きな物を想像したが、意外と小さくて驚いた。普段あまり気にしていないが、人間の触覚って結構敏感だと思った。

 

行儀の悪い話だが、食事をしていてご飯粒をこぼし、ズボンの上に落とした時も、ズボンの中の太腿のセンサーはそれを検知した。

 

皮膚には圧力や振動、伸縮や滑り具合に反応する数種類の細胞やセンサーが埋め込まれており、それらが組み合わさって一つの触感が構成されているそうだ。その感度は、素足で数十ミクロンの太さしかない髪の毛を踏んでも感知できるレベルという。

 

靴の中の砂粒に、足の裏が感知したことが納得できた。

 

 

2⃣ 日の出時刻

 

   写真ACより   「早朝の街の風景3」 Mits39bb さんの作品

 

NHKラジオ深夜便で、日付の変わる0時前に、翌日の日本各地の「日の出時刻」が放送される。その日のアンカーが北の札幌から沖縄の那覇まで順に読み上げる。札幌と那覇の「日の出時刻」が、秋の頃は約1時間も違って、日本も狭いようで結構広いものだと思ったりした。

 

又、東京での夏と冬では「日の出時刻」が2.5時間程違い、ラジオで翌日の「日の出時刻」を聞きながら、季節の移ろいを感じることもある。

 

先日布団の中で半分眠りながら、翌日の「日の出時刻」を聞いていて、札幌の「日の出時刻」が仙台や東京より遅いことに気が付いた。「確か夏の頃は、全国の主要都市では札幌が一番早いはずだったのにな~」と思って調べてみた。

 

札幌、仙台、東京、那覇夏至秋分の日、冬至の「日の出時刻」は下記であった。

 

     夏至(6月21日)   秋分の日(9月23日)  冬至(12月22日)

札幌    3:55         5:22         7:03

仙台    4:13         5:25         6:50

東京    4:25         5:29         6:47

那覇    5:37         6:18         7:12

 

「日の出時刻」を決める要素は、計測地点の地球の経度、緯度、標高、太陽から見た地軸の傾き等色々な要素があるだろうが、私は今迄経度の影響が最も大きいのだろうと漠然と考えていた。

 

今回各地の「日の出時刻」を調べて、夏の札幌の「日の出時刻」は、那覇より1時間半以上早いが、冬は10分ほどしか早くない。これは、「日の出時刻」の差は、経度よりも緯度の方が大きな影響を及ぼしていたのだ。

 

経度がほぼ同じの札幌、仙台、東京の「日の出」が冬になるとその順番が東京、仙台、札幌となるのも緯度の影響で説明がつく。

 

そう言えば、北極や南極の極地では、夏の白夜や冬の一日中夜の現象が起こる。「日の出時刻」は緯度の高い地域ほど緯度の影響力が大きい。

 

 

3⃣ 今年の漢字

今年の漢字」が「税」と発表された。2位は「暑」だったが、個人的には「暑」の方が相応しく思った。

 

とにかく今年の夏は暑かった。この暑さが今年だけの特別な現象であればよいのだが、地球温暖化の流れの中の現象と思われるので、来年以降も今年のような、もしくはそれ以上の酷暑に見舞われると覚悟せねばなるまい。気の重いことだ。

 

 

4⃣ 今年を振り返って

今年を振り返ると、私個人には特にこれと言った出来事はなかった。一週間は、週二回のテニス、週三回の卓球、金曜日のリハビリ、土曜日のスーパー買い出しの繰り返しで日々があっと言う間に過ぎて行った。

 

日常は、テニス、卓球を主体にして過ごした。それらは、ゲームをメインにやっているので、それなりに楽しく面白い。サークル活動は仲間とのコミュニケーションもとれて有意義だ。家では一人で生活することが多いので、仲間とのお喋りは貴重な時間でもある。

 

運動がしたくても身体の不調でできない人が、世の中には沢山いる。それらの人達と比べたら、運動できるだけでも恵まれ、ありがたいと感謝している。。

 

日常の生活に、メリハリをつけ気分転換するため、ちょっとした外出を試みた。今年外出したのは以下である。

 

4月 高川山 富士山眺望ハイキング

5月 東京近代美術館 重要文化財

6月 小菅村ドライブ

8月 花火見物/ 妹と横浜会食

11月 北信濃ドライブ

くらいのもので、あとは友人とのランチや卓球仲間との忘年会、カラオケに行った程度だ。

 

この一年、寝込むことも無く健康に過ごせたことは、何よりもありがたく思っている。

 

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今年の本ブログの更新は、来週はお休みとし、今回が最後とさせていただきます。次回は新年1月7日に更新予定です。

 

今年も本ブログを訪れて頂いた方々には、厚く御礼申し上げます。いつまでたっても、上手く書けず悪戦苦闘しています。

 

来年もよろしかったら、又訪ねてみて下さい。それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。

 

師走のある日

師走も半ば(なかば)が過ぎ、家の整理、掃除の類(たぐい)はまだ何もやっていない。掃除以外にも、新年用の買い物とか年賀状作りとか暮れにやっておくことが色々あるが、今年はそれに運転免許証の更新手続きが加わった。

 

やることがあるのにテニスや卓球で遊んでいても「心置きなく」楽しめない。少しでも片付けておこうと、師走のある日にまとめてやることとする。

 

まずは運転免許証の更新手続きから始める。

 

最寄りの警察署ではなく、隣の警察署に行く。ここは、新しい免許証が手続した当日に発行されるからだ。

 

朝、郵便局で年賀状を買い、テニスを終えてから警察署に向かった。街路樹のイチョウは紅葉の盛りを過ぎ、葉が散り始め風に舞っている。最近は温暖化のせいか12月になっても晩秋の風情だ。

 

      写真ACより  「イチョウ並木」 ここあさんの作品

 

13時少し前に署に着いた。玄関に「免許証更新の方は先に、交通安全協会へ行って印紙を購入して下さい」の貼紙がある。この交通安全協会の建物は広い道路の反対側のかなり離れたところにある。印紙を買って来るだけで、歩いて15分くらいかかった。

 

署に戻って更新手続きをする。更新に訪れている人は10人位と空いており、スムースに手続きが進む。事前に教習所で受講した講習修了証明書と認知検査結果を提出し、視力検査をして、写真を撮影したら数分で新しい免許証が交付された。

 

これまでの免許更新と比べて、余りにも早く終わって、「エッ これで終わり?」と驚くとともに時間が節約されて助かった。

 

帰りにホームセンターへ寄って、正月飾りと鏡餅を買う。新年用のテーブルクロスとキッチンマットを下見したが、この店には気に入ったものが無い。来週にでも違う店へ行って捜さねばならない。

 

次に駅ビルの本屋に行く。来年のカレンダーと日記帳、時刻表を買う。カレンダーは風景物と日付だけの予定を書きこむタイプの物だ。このカレンダーと日記帳は20年以上同じ物を毎年購入している。時刻表は来年冬に、もしかしたら旅に出るかもしれないと思い買っておいた。

 

孫たちへのクリスマスプレゼントを何にしようかと悩んでいたが、図書カードを思いつき、この店で購入する。

 

帰宅して、夕飯仕度をして夕食を摂った後、年賀状の画面作りにとりかかる。年賀状は出す枚数がめっきり減った。ここ数年「この年限りで年賀状終いをします」という賀状が何件か届くようになった。私もそろそろ「年賀状終い」をする時期かなとの思いがよぎる。

 

一方、普段ご無沙汰している知人の近況を知ることは嬉しいもので、年賀状がその唯一の縁(よすが)となっている場合は尚更である。

 

私の賀状は、パソコンの「筆ぐるめ」で作るごく簡単な図柄のもので、出す枚数も少ない。手の込んだ図柄を作成したり大量の枚数を処理する人に比べたら、私の作業量は微々たるものだ。グータラな私は、年末にこの作業が無くなることに魅力を感じるが、もうしばらく続けてみようかと思う。

 

年賀状の図柄は毎年同じパターンなので、来年用もそれほど時間をかけることなくできた。

 

今朝年賀状ハガキも買ってきたので、今日中に印刷しておこうと考える。10月に新しいプリンターに買い替えて、A4用紙への印刷はしているが、ハガキ印刷は今回が始めてだ。

 

プリンターのトレイにハガキをセットして、操作ガイドに従ってタッチパネルを操作し用紙サイズと用紙タイプを「ハガキ」と「インクジェット」に指定する。パソコンから「印刷」の指令を出すと、図柄がハガキではなくA4用紙に印刷されて出てきた。

 

「ムム・・・なんだこれは?」ともう一度タッチパネルの指定を始めからやり直して印刷・・・やはり、A4用紙に印刷されハガキには印刷されない。3回程同じ作業をして同じ結果だった。

 

プリンターの操作ガイドをじっくり読み返すと、ハガキ印刷の場合、「上段のハガキトレイ(スライド式になっている)を完全に奥にずらす」と書いてある。私はずらさずに印刷していたのだ。奥までずらして解決した。

 

私のずぼらな性格が出て、ハガキトレイの詳細を見落としたのだ。恥ずかしい。

 

ハガキの印刷に手間取って、刷り終わった時は0時を過ぎていた。

 

師走のある日、バタバタと慌ただしい一日だった。暮れの慌ただしさはこれからが本番、この日はまだまだ序の口だ。

 

 

 

師走第二週

今年も私の嫌いな師走が到来した。グータラな私には、年末の大掃除や正月準備で大忙しするのが嫌でこの時期は気が重い。いつも大掃除などは年末ギリギリまでしないので、師走も前半はだらだらと過ごしている。

 

今回は、師走第二週の日々を綴ることとする。

 

 

12月4日(月)

当地は、暖かかった11月から12月に入ると冬らしく寒くなった。特に朝の気温は0℃近くまで下がり、今朝は-1℃まで冷え込んだ。日中には気温も13℃シまで上がり、天気は三日続きの快晴で気持の良い青空が広がっていた。

 

昼には昔からの友人とランチに出かけた。コロナの扱いもインフルエンザと同じ5類相当となったので、罪悪感も無く食事を楽しめた。

 

この日は、H卓球の日であったが、Hさんに私の代理で会の取りまとめをお願いして欠席した。

 

夕方、そのHさんからメールが入り、私の留守中に「S」と名乗る人が、私にアイリスを渡すために練習会に来たと報告された。「S」さんは、私が休んでいると聞くと、次の練習会に又来ると言って帰ったそうだ。

 

私には、「S」さんもアイリスも全く心当たりが無い。人違いであろうとは思うが、それにしても、私の苗字は世間では少ない方なので、何故私の名前が出てきたのかが不思議だ。次の練習会には判明するが・・・。

 

 

12月5日(火)

今日は12:30からのテニスに参加したが、このシーズンで一番寒かった。その時点での外気温度は9℃、ダウンジャケットを着たままプレイし始めたが、2ゲーム程プレイしても、身体が温まらずジャケットが脱げない。まだ風が無くて助かった。

 

私は汗かきで、プレイ中は直ぐに身体が熱くなって汗をかくので、先週は半袖のTシャツ一枚でプレイした。さすがに今日は半袖一枚とはいかず、3ゲーム以降は、上に長袖のシャツを着た状態で続けた。休憩中はもちろんジャケットを着込む。

 

今年は、長い夏から秋を飛び越えて、一気に冬に突入したと言う感じだ。

 

寒くなってきたので、夕飯の晩酌のあてに「鰤大根」を作った。土井善晴さんのレシピを参考にする。鰤のあらはスーパーで「鰤大根用」として売っている。大根は一本まるごと使う。我が家の大鍋では一回ではできないので、二回に分けて作った。

 

あめ色に煮詰めた大根は、鰤のエキスをたっぷり吸い込んで、箸で切れる程柔らかくなっている。炊き立ての大根をフーフーと冷ましながら食べて、熱燗を流し込む。身体が一気に温かくなった。

 

 

12月6日(水)

8:30からの早朝テニスに行く。朝から雲一つない快晴だ。今日は朝も早いことなので、昨日のような寒さを覚悟したが、体感温度は昨日と比べるとずっと暖かく、ゲームの初めからシャツ2枚でプレイできた。

 

季節は昨日の冬から又秋に戻ったようで、青空の下快適にテニスを楽しむことができた。

 

 

友人のSさんも一緒にプレイをして、いつもはテニスの後に二人でMACへ行くのだが、今日はSさんに用事ができ、コーヒー&談話は取りやめとなった。

 

時間ができたので、近くの市立図書館に行く。ここを訪れるのは久しぶりだ。館内のシーンとした雰囲気が懐かしさを覚える。

 

本棚の「漫画 吾妻鑑」(鎌倉時代の歴史書)を手に取ってパラパラと見ていたら面白そうで閲覧室に持ち込み、上中下3巻を2時間かけて全巻を通読した。

 

 

12月7日(木)

リハビリへ通うのは毎週金曜日であるが、明日の金曜日は、ペースメーカー外来の受診日のため、リハビリを今日7日に振り替えた。

 

木曜日の施設利用者数は、金曜日とほぼ同じであるが、顔ぶれが全く異なるので、雰囲気も全然違う。金曜日は、8:30に利用者の中では私が一番早く施設に入るが、今日木曜日は、私が施設に着いた時には、既に5~6人がマシントレーニングをしていた。

 

木曜日のメンバーの方が、真剣にトレーニングしている人が多いようだ。昨年夏頃に、同じく木曜日に振り替えた時、一人の男性利用者が、リハビリの内容やその日の記録、課題等をノートに筆記しながら、懸命にリハビリをしている姿が目に入った。

 

後から知ったことだが、その人は私の友人Sさんの親戚の方だった。Sさんの話によると、彼は私より10才位若く、在職中にパーキンソン病になりリハビリを続けているとのことだ。病気になる前は、野球他のスポーツをやって活発に身体を動かしていたという。

 

一年以上経って再会した彼は、残念ながら去年の夏より更に身体の自由度が減少したように見えた。あれだけ熱心にリハビリに励んでいるのに、病状は良く成るどころかより進行している。世の中の不条理に胸が痛くなった。

 

 

12月8日(金)

2006年に「完全房室ブロック」という心臓の病気になった。人間の身体は、心臓の心室の収縮によって血液が全身に流れるが、その心室の収縮を促す洞結節からの電気信号が伝わらなくなって極端に遅い脈拍になる病気だ。

 

その治療法として、体内(鎖骨の下)にペースメーカーを埋め込んだ。この文明の利器のお陰で、そのままでは失神したり心不全になって最悪死に至るところを免れ、私はそれ以降、運動を含む日常生活を享受している。

 

私にとってペースメーカーは命の恩人であり、無くてはならない最大限に重要な小型電子機器だ。

 

この重要なペースメーカーが正常に作動しているかチェックする為、一年に二回これを埋め込んだ大学病院で定期点検検査をしている。車と同じだ。

 

今日はその検査の日で、病院へ行ってきた。半年前の前回の点検で、そろそろ電池の寿命で交換手術時期が近いと言われた。2006年に埋め込んだ後、2017年に新しいものに交換している。今日はニ回目の具体的な手術日程が告げられると覚悟した。しかし検査の結果、電池はあと半年以上はもつことが分かり手術も延期が決まった。

 

大学病院はいつものように混んでいたが、コロナ禍の時のような病院全体に広がっていた切迫感は無くなっていた。

 

 

12月9日(土)

今週は月、火と寒かったが、水曜日から又暖かくなり、師走と言うのに10~11月のような温暖な日が続いている。今年は、一日の寒暖差そして日毎の寒暖差が激しい年だ。大きな寒暖差により自律神経が不調となり、体調を崩す人も多いと報じられている。

 

今日も又20℃近くの陽気となった。買い出しに行ったスーパーは、正月飾りや飾り餅等の正月用品の売り場面積が増えたようだ。これから歳末商戦はいよいよ本番となるが、私の年末のスイッチはまだ入っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忘年会

今年も12月に入り、余すところ一ヶ月となった。時の過ぎるのはいつでも同じはずなのに、年を重ねるごとに感覚的には早くなる。

 

忘年会の時期となった。コロナ禍で三年間忘年会などの宴会は自粛されてきたが、今年は規制が解除されたので、4年振りに忘年会を開催する企業も多いと報道されている。師走の街もコロナ禍前のような喧騒が戻ってくることだろう。

 

コロナ禍の期間中に就職した若者は、今年始めて会社の忘年会に参加するという者も多い。忘年会の意識も昔とは様変わりしているようだ。会社の忘年会というと、参加が当たり前だったが、今は欠席する若者も多いと聞く。今の管理職は忘年会では、パワハラ、セクハラにならぬよう若者にことのほか気を遣うらしい。

 

私もこれ迄いろいろな忘年会に出てきた。記憶に残る幾つかの忘年会を綴ってみたい。

 

① 山岳部忘年山行

結婚前の独身時代、会社の山岳部に入っていた。毎年暮れに、なるべく多くの部員が参加できるようハイキング程度の山行が計画されていた。ある年(具体的には忘れた)の12月10日、旧碓氷峠忘年山行に参加した。

 

横川駅からのハイキングコースを峠に向かって歩く。林の中のコース道は落ち葉に覆われ、ふかふかの絨毯の上を歩くようで気持ち良い。先輩の男性部員が若い女性部員に面白い話や冗談を言いながら登っていく。その話が面白くて女性たちはキャッキャッ言いながら後を追う。

 

私は当時山岳部に所属していたが、一人で登ることが多かったので、こんなに沢山の部員と一緒に登るのは初めてのことで、特に女の人は、この時初めてお会いする方がほとんどだった。

 

やがて峠に着いた。この日は朝から快晴で、目の前に広がる真白な雪を被った浅間山は真っ青の空に映えて、それはそれは美しかった。

 

           写真ACより  m.maeda さんの作品

 

この時の女性の一人が、後に私の連れ合いとなった。

 

② 川崎忘年会

入社して私は会社の寮に入った。所属は川崎の研究所だ。その寮から同じ研究所に通う私の同期と一年先輩の7人が、仲良くなっていつしかグループができていた。会社の帰りに飲みに行ったりもしていたが、年末には7人で忘年会を開くことが恒例となった。

 

私が一番の若輩だったので幹事をし、場所は川崎駅前商店街の少し奥の居酒屋とした。ここは、人の良さそうな太ったオバサンが切り盛りし、会計もリーズナブルであった。いつも二階の窓際の、下の商店街を通る通行人を見下ろせる席で、大きな土鍋を囲んで一年の各自の出来事を報告したり歓談した。年末に皆と食べる寄せ鍋の味は格別だった。

 

この店に通い始めた頃、オバサンは赤ちゃんを横に寝かしながら仕事をしていた。最後に訪れた時、その赤ちゃんは10才位になっていた。

 

それから20年程して、たまたま川崎に行く機会があり、懐かしくなってこの店を捜してみたが無くなっていた。

 

この時の7人の仲間とは、会社を退職した後も、東京や横浜で会食したり、旅行に行ったりしている。コロナ禍の3年は外食ができなかったので、オンラインで親交を続けた。

 

③ 現場事務所忘年会

30代になって職場は研究所からエンジニアリング部門に変わった。愛知県の石油会社のプラント建設の担当になり、夏から半年程、現場建設事務所に所長代理として赴任した。

 

現場事務所は、所長が社長の小さな会社のようなもので、事務所には各種の下請け企業の社長や営業部長の来訪が絶えなかった。

 

12月にプラント建設が完工し、試運転が始まり一段落したところで、現場事務所の忘年会が行われた。シャンデリアの付いた豪華なマイクロ観光バスをチャーターして、現場から木曽の馬込を観光し、そこから飛騨の下呂温泉へ行って忘年会の宴会をするというものだ。

 

下呂温泉の忘年会は、温泉の芸者さんやコンパニオンも加わって豪華で華やかなものとなった。

 

宴会が終わって露天風呂に入っていると、外は雪が降り始め、五木ひろしの「細雪」のような良い風情だった。その時所長から呼び出しがあり、試運転中のプラントの機器から液が吹き出していると顧客から電話があったと言う。

 

今から現場に戻って対応してくれと言われる。私とプロセス担当、エンジニアリング担当の3人で、真夜中の雪の中をタクシーで下呂から愛知県の現場に向かった。

 

現場には未明に到着し、処置して事なきを得たが、慌ただしい一日だった。残りの者は、翌日バスで高山を観光して帰ってきた。

 

 

④ テニス忘年会

会社を退職してからテニスと卓球を始め、一時は三つのテニスサークルと四つの卓球サークルに同時に入っていた。暮れになって、忘年会開催の話が出るのは、いつも卓球の方で、テニスは練習会で会ってプレイしてそれで終わりということが多かった。

 

卓球は、ウェットで人間臭い人が多く、テニスは、ドライでクールな人が多いように思える。

 

テニスを始めた頃、テニススクールに通っていて、そこで知り合った私と同世代の男性(Tさん)と主婦たちに声をかけ、私が新しいテニスサークルを立ち上げた。当時その主婦たちは皆アラフォーの世代で、私から見ると独身のお嬢様のように若々しく見えた。

 

暮れになると、私は代表として忘年会を提案し開催した。会員の男性は、私とTさんの2人、あとは主婦6人の計8人。お店はオジサン臭い居酒屋は避けて、主婦たちに聞いたお洒落なスペインレストランとする。

 

当時主婦たちは、小学校の低学年か幼稚園児の母親で、一次会での話題は専ら子供の話で、私やTさんが話題に入り込む余地は無かった。

 

二次会はカラオケに行く。カラオケは苦手の人も多いが、この日は全員が参加した。皆さんお上手で、歌いなれているようだ。私とTさんの選曲が主に昭和の歌に対して、主婦たちは新しかったり若者向けの知らない曲が多い。年の差を感じた。

 

このサークルは、その後主婦たちの子供が大きくなって手がかからなくなると、パートなどの仕事に就く人が多くなった。一人やめ二人やめと会員が減少し、やめなくとも欠席する人が増え、出席者が3人を割ることもでてきて、残念ながら解散した。

 

 

今年は4年振りに、忘年会の誘いがあったが、それはやはり卓球でテニスは無い。

 

'23年九州場所の朝之山

秋場所の朝之山の番付は西の前頭二枚目で、成績は9勝6敗だった。これを受けた九州場所の番付は、小結に二つ空きができたが、勝ち星が一つ足らず、三役昇進はならず、北勝富士、阿炎に小結の座を譲り、東の前頭筆頭に甘んじることになった。

 

この番付だと、九州場所で勝ち越しさえすれば、来年の初場所では、念願の三役昇進が濃厚となる。

 

10月の秋巡業では、朝之山は、三番稽古※1や申し合い※2に、上位陣から指名されて密で充実した稽古を重ね、貴景勝とも互角かそれ以上の勝負をして手ごたえを感じていた。

 

※1 三番稽古 実力のほとんど同じ力士が、二人で何番でも納得するまでやる稽古

※2 申し合い 実力の余り変わらない力士が、勝ち抜き戦を行い、勝った力士が次の相手を指名し、対戦相手を変えながら続ける稽古

 

ところが、10月28日の広島巡業中の朝稽古で、錦木とぶつかり稽古をしていて、左足のふくらはぎを肉離れしてしまった。11月12日からの本場所2週間前の大事な時期の怪我で、以降実戦稽古は全くできなくなってしまう。

 

本場所開催2日前の11月10日、朝之山は協会に「左腓腹筋損傷の為、21日間の安静加療を要する」という診断書を提出して、九州場所は初日から休場することになる。

 

「ここまで来たからには、出場したかったですが大怪我につながりかねないので・・回復次第では、負け越しても出る(途中出場)つもり」と語る。

 

12日本場所が始まったが、左足の痛みはまだかなりあり、朝之山は部屋で他力士の活躍をテレビで見ることになる。

 

朝之山は11月18日、19日の中日(八日目)からの再出場を決めた。

 

「六日目の朝稽古後、左足は大分動けるようになった。初日の状態と比べたら、すごく良い。傷みが完全になくなったわけではないが、土俵に上がったら関係ない。負け越しで途中出場するよりも、勝ち越しの可能性を残して出場するからには、全力でやりたい。※3

※3 中日から8連勝すれば勝ち越せ、来場所三役が期待できる。

 

「途中出場には賛否両論あるのは分っている。でも何よりもこの場所に出ることが、これからの自分の為になると思って決めた。腹をくくった結果、今は早く本場所の土俵に立ちたい」

 

九州場所の朝之山の取組結果>

 

          対戦相手     決まりて      勝敗

初日~七日目     休場

中日(八日目)    貴景勝     下手投げ       勝

九日目        霧島      はたき込み      負け

十日目        大栄翔     押し出し       負け

十一日目       豊勝龍     下手投げ       負け

十二日目      北勝富士               押し出し      負け

十三日目       若元春     寄り切り       勝

十四日目       正代                      寄り切り       勝

千秋楽        阿炎      突き落とし      勝     

 

 

① 中日の途中出場で迎えた最初の取組相手は、先場所優勝の大関貴景勝

朝之山は戦い前、土俵下の控えで待つ間、10才で相撲を取り始めて以来経験したことの無い緊張感に襲われ足が震え出した。土俵に上がった仕切り中も震え、時間いっぱいの仕切りで、館内の声援を聞いてようやく震えが止まり「思い切っていこう」と自分を奮い立たせた。

 

相手の貴景勝も綱取りに一敗も落とせない一番で、必死の形相で迫ってくる。朝之山は激しい突きをしのぎ続けたが、土俵際まで追い込まれる。この窮地で朝之山は何とか左下手を取って、左に回り込みながら捨て身の下手投げ、両者土俵下に飛び込んだ。軍配は朝之山。だが物言いがつき協議の結果、軍配通り朝之山の勝となった。

 

② 九日目の相手は、大関霧島

朝之山は立ち合いから、圧力をかけ続けたが、霧島のいなしからのはたき込みで、霧島を押し出しながら前に倒れた。軍配は霧島だが「朝之山の右手が付くのと、霧島の左足が土俵を割るのが同時ではないか」と物言いがつき、協議の結果、霧島の勝となった。二日続けての微妙な取組結果となる。

 

この日負けたことにより、1勝1敗7休となり、今場所の負け越しが決まり、三役の可能性も消滅した。

 

気落ちしていないかとの記者の質問に「ない!前に出ていたので、明日に繋がる負け」と今日の負けを引きずっていない様子だった。

 

③ 十日目の相手は関脇大栄翔

朝之山は立ち合い胸から当たって踏み込もうとしたが、大栄翔に突き放され、引いた僅かな一瞬に一気に押し出された。完敗だ。

 

④ 十一日目 大関豊勝龍戦

立ち合い直ぐに右四つとなり、豊勝龍が下手投げ打ってくるところを朝之山も上手投げで打ち返すが、豊勝龍の引き付けからの投げが厳しく、豊勝龍の下手投げに屈する。

 

昨日の大栄翔戦といい本日の豊勝龍戦といい、朝之山は両者との対戦成績が悪く同じような負け方をしている。今後上に上がるには、苦手力士を作るのはまずい。今後の稽古で対策を研究して欲しい。

 

⑤ 十二日目 小結北勝富士

朝之山のこれまでの北勝富士戦の対戦成績は10勝2敗と分の良い相手だ。今日は勝って連敗脱出といきたい。

 

立ち合い後朝之山は、一旦は北勝富士を土俵際まで追い込むも、上手が取れずモタモタしている間に、北勝富士の一瞬の引きからの押しで土俵を割った。押し相撲力士(貴景勝、大栄翔、北勝富士)は一瞬引いてからの押すタイミングが実に上手い。

 

朝之山はこれで、1勝4敗7休の4連敗となり、朝之山ファンとしては、欲求不満が募るばかりだ。

 

⑥ 十三日目 関脇若元春戦

優勝争いは、二敗の霧島、熱海富士に絞られ、負け越している二人(朝之山、若元春)の取組に対しては、NHKのカメラも冷淡だ。仕切りの様子をじっくり見たかったが、仕切り中は他の力士が映し出されていた。時間いっぱいとなってやっと二人の姿が映った。

 

立ち合い後、若元春が上手を取って出てくるところを、朝之山は右からのすくい投げで若元春の身体が大きく崩れたところを寄り切った。朝之山五日ぶりに勝ち名乗りを受ける。

 

 

 

⑦ 十四日目 前頭2枚目正代戦

正代は熊本県出身なので、九州場所はご当地力士だ。客席には、朝之山と同じくらいの応援タオルが揺れていた。

 

立ち合い後、朝之山は左の上手を取って引き付けながら、一気に前に出て正代を寄り切る。この場所で初めての朝之山らしい相撲で勝った。

 

⑧ 千秋楽 小結阿炎戦

立ち合い後、阿炎の強烈なもろ手突きとのど輪を、朝之山は弓ぞりにのけぞりながらも下がらず凌いで残し、両手で突いて阿炎に土を付けた。

 

今年最後の取組も、白星で飾り、九州場所は4勝4敗7休となった。 

 

 

朝之山は不祥事による出場停止処分が明けた昨年7月の名古屋場所で、三段目からスタートして以来、8場所連続して勝ち越し、前頭筆頭迄番付を上げてきた。今場所は、場所前のふくらはぎの怪我で、初日から7日目まで休場し、中日8日からの出場の為、成績も4勝4敗7休と不本意な結果となった。

 

来場所の番付は、前頭10枚目位まで下がるだろうが、今度は怪我の無い万全の体調で臨んでもらいたい。怪我さえなければ、三役、大関への復活も朝之山ならできると思う。