私の叔母さん

母方の叔母の訃報が届いた。享年95才だった。時々私から電話を入れて様子伺いすると、散歩したりデイケアで体操したり、お喋りしたりと元気に生活していると言うので、安心していた。

 

晩年耳の聞こえが少し悪くなったが、元々身体は丈夫な方で、内臓の疾患が無く特に痛いところも無くて、お医者さんに褒められたと笑って自慢していた。ただ近年お友達が相次いで亡くなり、話し相手がいなくなって寂しいと漏らしていた。

 

もう数年もご無沙汰していたので、元気なうちに叔母に会いに行こうと考えていたが、コロナが流行り始めて、訪問は先送りになっていた。この秋辺り尋ねてみようかと思っていたが、先に訃報が来てしまった。悔やまれる。

 

 

叔母は私の母と3才違いの妹である。母は生前「姉ちゃん(叔母のこと)は、ワタシと違って、頭が良くって学校の成績も良かったんだよ。運動も得意で、運動会の徒競走ではいつも一番だった。」とよく言っていた。心配性で、細かいことを考えすぎる私の母と違って、叔母は、楽天的、合理的で明るい性格だった。

 

叔母は独身時代から、我が家へよく遊びに来ていたので、私たちは叔母のことを「姉ちゃん」と呼んでいた。結婚してからもずっと呼び名は「姉ちゃん」だった。私は子供のころ叔母に大変可愛がってもらった。

 

母が私の妹を出産するために入院していた時、叔母は我が家へ住み込みで手伝いに来てくれていた。この時叔母は私と一緒に買い物に行って、私の好きな菓子や果物を買ってくれた。この時買ったバナナや桃の缶詰を、母の病室で皆で食べた。バナナは当時まだ貴重な果物で、桃の缶詰は子供心にその美味しさに感動し、今でもその時の味が忘れられない。

 

妹が生まれた後、叔母と病院へ行った時、私は母に「赤ちゃんは何という名前なの?」と訊いた。すると叔母は笑いながら、「〇〇しんせいじ」(○○は私の姓)と言う。私は「女の子なのに『しんせいじ』なんて変な名前は可哀そうだし嫌だ」と不平を言った。

 

叔母は面白がって、「もう決まったんだよ」と言う。私は本当に妹の名前が『しんせいじ』に決まってしまったと思い、「そんなの嫌だ嫌だ!」と大声で抗議した。

 

叔母はこの件が殊の外面白かったらしく、私が大きくなってからも何度も「あの時は可笑しかった」と思いだしては笑っていた。最後に合った時もこの話が出た。

 

叔母は結婚して、夫の勤めるT自動車近くのT市内で暮らすようになる。子供が小さい時は忙しかったようだが、子育てが一段落すると、姉である私の母と世間話をするために、我が家をよく訪問した。

 

叔母の家から名古屋市東部の我が家までは、2時間とかからなかったので、来やすかったのだろう。私が学校から帰ると、よく叔母と母が話をしていた。母の兄弟は、もう一人名古屋市内に住む弟(私の叔父)がいて、叔母も叔父も長女である私の母を慕って、よく我が家へ遊びに来ていた。大人になっても仲の良い3人兄弟だった。

 

叔母は時々、我が家に泊まった。私が高校生だったころ、当時私が読んでいた夏目漱石の「三四郎」の話をすると、叔母も読んでいたようで、漱石の作品で話が弾んだ。

 

叔母の夫(義理の叔父さん)は、趣味を大切にする人で、立派なステレオ装置で音楽鑑賞をしていた。それを新しいものに買い替えるので、今まで使用していたステレオユニットを私が譲り受けた。当時まだユニットタイプは珍しい時代で、私は高校生の身で臨場感あふれる音楽を自宅で楽しむことができた。

 

義理の叔父さんは、こけしの蒐集にも凝っていて、定年退職後は、自分の勤め上げた会社の高級スポーツタイプの乗用車を駆使して、日本中のこけしの産地を巡った。

 

叔母も何度か同行したが、叔父さんは現地へ入ると、こけしの品定めと買い付けに夢中となり、長時間こけしの店から出てこないので、こけしにはあまり興味の無かった叔母は、ゆっくり喫茶店でも入ってお茶でも飲みたかったと、帰ってから私の母に不平を言っていた。

 

叔父さんは、自宅の一室にこけしの陳列ケースを並べて「こけしの部屋」とし、そこに買い集めたこけしを収納し、眺めては楽しんでいたそうだ。

 

 

それからしばらくして、義理の叔父さんは、68才の若さでお亡くなりなり、叔母は未亡人になった。叔母は次男家族と暮らしていたが、実の姉である私の母と話をしたいらしく、叔母の名古屋通いが再開した。

 

母も当時夫(私の父)を亡くし、私や妹も家を出て一人暮らしだったので、時々訪ねて来る気心の知れた叔母と姉妹仲良く話ができることを楽しみにしていたようだ。その母が19年前に亡くなってからは、叔母に関する情報も母から聞けなくなった。

 

7年前に叔父が亡くなり、仲良し3兄弟は叔母一人になってしまった。叔父の葬儀の後、叔母はさぞかし寂しい思いをしているだろうと、慰め方々私と妹夫妻の3人でT市の叔母宅を訪問した。

 

気丈な叔母は、弱音は一切吐かず、にこやかに笑って対応してくれた。この時も妹が生まれた時の「しんせいじ」の話をして面白がっていた。

 

その後私も気になって、時々電話を入れたり、叔母からも電話で近況を知らせてくれたりしたが、最近は疎遠になっていた。

 

叔母は若い時から賢く資産運用をしていたので、経済的には何一つ不自由のない生活をしていた。

 

私の母もそうだったが、叔母も夫に先立たれてからは、自分の好きなことを好きなようにして暮らしていたようだ。幸せな生涯だったと思う。

 

 

叔母の死後、葬儀は叔母の二人の息子家族のみで、極く少人数の家族葬を行ったということだ。葬儀後に叔母の訃報が届いたので、叔母の甥と姪に当たる私と妹は、秋の一日叔母宅へ弔問に行った。

 

始め、車で行くことを考えたが、東名高速は一部工事中で込みそうなので、電車にする。叔母宅のT市は名古屋からのアクセスは良いが、東京方面からだと乗り換えが多く煩雑だ。

 

結局名古屋の妹宅へ直接行って、義弟の運転する車に同乗させてもらい3人で叔母宅へ向かうことになった。

 

叔母宅を弔問し線香をあげた後、叔母と一緒に暮らしていた次男(私の従兄弟)が、叔母が亡くなった時の様子を話してくれた。

 

その日の朝叔母は何事も無く、次男夫婦ともいつもの会話を交わし、次男夫婦が仕事に行って、家は叔母一人になったということだ。叔母は買い物にでも行こうと思ったのか玄関を出たところで倒れたそうだ。倒れた叔母を近所の人が直ぐに見つけてくれて、救急車で病院に運ばれたが死亡していたと言うことだ。

 

私はこの話を聞いて、「叔母さんは『ピンピンコロリ』で亡くなったのだ」と思った。

 

「ピンピンコロリ」の定義とは、病気に 苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝込まずにコロリと死ぬことであるが、叔母の死は、まさにこれに該当するものだと思う。

 

現代人は誰しも「ピンピンコロリ」を願っているが、なかなかそれが叶わないのも現実である。叔母は生前息子たちに「寝込んで周りを煩わせるのは嫌だ。死ぬ時はコロリと死にたい」と言っていたそうだが、その通りになった。

 

叔母は幸せな生涯を過ごし、自分の希望通りの最後で幕を閉じた。運も良かったであろうが、普段の心掛けも良かったからなのだろう。

 

ご冥福をお祈りします。